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{{中華圏の人物
'''唐 紹儀'''(とう しょうぎ、''Tang Shaoyi''、[[1859年]] - [[1938年]])、字は'''少川'''は[[中華民国]]の政治家。
| 名前=唐紹儀
| 画像=
| 画像の説明=
| 出生=[[1859年]]
| 死去=[[1938年]]
| 出身地=[[広東省]][[中山市|香山県]]
| 職業=政治家
| 簡体字=唐绍仪
| 繁体字=唐紹儀
| ピン音=Táng Shào
| 通用=Táng Shàoyí
| 注音=ㄊㄤˊ ㄕㄠˋ |ˊ
| 注音二式=Táng Shàuyí
| 和名=とう しょうぎ
| 発音=タン シャオイー
| ラテン字=
| 英語名=
}}
 
'''唐 紹儀'''(とう しょうぎ、''Tang Shaoyi''、)は[[1859年中華民国]] - [[1938年]])、の政治家。字は'''少川'''は[[中華民国]]の政治家
[[広東省]][[中山市|香山県]]出身。[[清]]末にアメリカ留学児童として派遣され、[[コロンビア大学]]で学んだ。[[辛亥革命]]の際の「[[南北和議]]」では清朝側の代表を務めた。[[1912年]]3月から6月まで中華民国の国務総理となったが、[[中国同盟会]]に近い傾向を示したため、臨時大総統の[[袁世凱]]によって辞職を余儀なくされた。その後[[上海市|上海]]で金星人寿保険公司を設立し、理事長となった。
 
[[広東省]][[中山市|香山県]]出身。[[]]にアメリカ留学児童として派遣され、[[コロンビア大学]]で学んだ。[[辛亥革命]]の際の「[[南北和議]]」では清朝側の代表を務めた。[[1912年]]3月から6月まで中華民国の国務総理となったが、[[中国同盟会]]に近い傾向を示したため、臨時大総統の[[袁世凱]]によって辞職を余儀なくされた。その後[[上海市|上海]]で金星人寿保険公司を設立し、理事長となった。
 
[[1917年]]、護法運動時には[[孫文]]によって軍政府の財政部長に指名されたが就任はしなかった。[[1922年]]8月、第一次[[奉直戦争]]で勝利した直隷派から再び国務総理として指名されたが、これも就任しなかった。[[1929年]]、中山県訓政委員会主席となり、[[1931年]]には県長となった。しかし[[1934年]]、[[陳済棠]]と対立して辞職し、上海に寓居した。
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== 参考文献 ==
*邵桂花「温宗尭」[[中国社会科学院]]近代史研究所『民国人物伝 第12巻』[[中華書局]]、2005年
*劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年
 
{{先代次代|[[中華民国]][[内閣総理|国務院総理]]|[[1912年]]3月 - 6月|(創設)|[[陸徴祥]]}}