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和銅3年([[710年]])3月10日、都が[[平城京]]に遷ったとき、石上麻呂は、旧都の[[複都制|留守]]になった。7月7日、左大臣の舎人[[牟佐相摸]]が天皇に[[嘉瓜]]を献じ、文武百官が祝賀の言葉を奏した。
 
霊亀元年([[715年]])7月27日に[[穂積親王]]が死ぬと、石上麻呂が臣下の最高位になった。2年後の養老元年([[717年]])3月3日に石上朝臣麻呂は死んだ。78歳だった。[[元正天皇]]は深く悼み、治をみることを中[[長屋王]]と[[多治比三宅麻呂]]を弔問の使いとして麻呂の家に使わして弔向かわせ、物と[[従一位]]の位た。[[太政官]]から[[上毛野広人]]、五位以上から[[穂積老]]、六位以下から[[当麻東人]]が出て、[[誅]]それぞれ誄(のびごと)が奉られた。『続日本紀』「追慕し痛惜しない百姓<ref>百姓とは、ここでは人々すべての意味。</ref>はなかった」と記す。同年11月10日に、絁([[あしぎぬ]]、絹布の一種)100疋・糸400絇・白綿1000斤・布300端が与えられた。
 
== 年譜 ==