「リヴォニア騎士団」の版間の差分

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1410年の[[グルンヴァルトの戦い]]で大敗を喫して以後、ドイツ騎士団は衰退の一途をたどり、1525年には[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク]]によってプロイセン地域が世俗化することになったが、リヴォニア地域の分団は独立状態を維持していた。1560年、[[リヴォニア戦争]]において騎士団は[[エルゲメの戦い]]で[[モスクワ国家|モスクワ・ロシア]]の軍勢に決定的な惨敗を喫した。窮地に陥ったリヴォニア騎士団は、1557年に起きた[[ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク|リガ大司教ヴィルヘルム]]と騎士団との争いに介入した[[ポーランド王]]、[[リトアニア大公]]の[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]に、庇護を求めようとした。
 
1561年、ジグムント2世アウグストの代理人[[ミコワイ・ラジヴィウ・チャルニィ]]との間に結ばれた[[ヴィリニュス合同|ヴィリニュス協定]]により、最後のリヴォニア騎士団長[[ゴットハルト・ケトラー]]は騎士団を世俗化して[[ルーテル教会|ルター派プロテスタント]]に改宗した。騎士団領の南部はケトラーとその家族が統治する[[クールラント=セミガリア公国]]となったが、騎士団領の残部の大半はリトアニア大公国に接収された。エストニアの北部地域は、同時期の[[北方七年戦争]]によってデンマークと[[バルト帝国|スウェーデン]]に[[領有]]されることとなった。
 
== 歴代団長 ==