「黒澤進」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m 正しい用字は「延いては」 常用外の読みなのでひらがなで |
指摘に従い大幅に修正・タグ除去・項目追加(黒澤によるグループ・サウンズの分類及び評価) |
||
1行目:
'''黒澤 進'''<!-- 活動開始当初は「黒沢 進」の表記もあり -->(くろさわ すすむ、[[1954年]][[9月5日]] - [[2007年]][[4月19日]])は、日本の[[音楽評論家]]。'''「[[グループ・サウンズ|GS]]研究家」'''の肩書きを掲げ、
▲'''黒澤 進'''<!-- 活動開始当初は「黒沢 進」の表記もあり -->(くろさわ すすむ、[[1954年]][[9月5日]] - [[2007年]][[4月19日]])は、日本の[[音楽評論家]]。'''「[[グループ・サウンズ|GS]]研究家」'''の肩書きを掲げ、{{要出典範囲|その第一人者としての地位を確立|date=2008年4月29日}}<!--この人物がGS研究かとしての第一人者である、とは誰が決めたのですか?-->。[[グループ・サウンズ]]を中心に[[ロカビリー]]や[[フォークソング|フォーク]]など、1960年代前後の[[和製ポップス]]に関する評論や解説を{{要出典範囲|各方面で展開|date=2008年4月29日}}<!--各方面とは具体的にはどこですか?-->した。
特にグループ・サウンズに関しては
== 来歴 ==
[[1954年]][[9月]]、[[秋田県]]に生まれる。中学時代にグループ・サウンズのブームが到来、「日本語で[[洋楽]]っぽいものが聞ける」というGSの魅力にとりつかれ、それ以来毎日、GSと名の付くものは全てテープに録音、或いはメモをとるという生活をおくる。こうした記録を付け始めた動機を本人は「子供心に『これは後世にまで残すべき』という予感みたいなものがあった」と後年語っている。<!--1986年9月11日放送・ CBCラジオ「小堀勝啓わ!Wide」でのインタビューより -->またその当時から既に、あまり売れていない(もしくは誰も知らない)マイナーなGSに、特に関心を持っていたという。
1970年代に入り、グループ・サウンズのブームの退潮と共に、音楽そのものへの関心が薄れる。ただし別格だったのが、[[早川義夫]]と[[高田渡]]だったといい、自著に特に好んで[[ジャックス (バンド)|ジャックス]]を取り上げたり、1970年代の所謂[[アングラ・レコード・クラブ|URC]]系フォークに関しても数多くの評論を残したのは、この辺りに由来する。[[1986年]]に[[高護]]によって発行された「定本ジャックス Jacks Complete」の制作にも協力している。
12 ⟶ 10行目:
1980年代に入り、ふとしたきっかけで自身のグループ・サウンズへの熱が再燃、改めてGSの研究に取り組み始める。[[1982年]]から[[1985年]]にかけて、『'''資料 日本ポピュラー史研究'''』を自費出版の形で世に出す(1982年・『(上巻)-「ロカビリー~カバー」と「エレキ」編』、[[1983年]]・『(下巻)-「GS」と「カレッジ・フォーク」編』、[[1985年]]・『(補巻)』)。
[[1986年]]、大手の[[徳間書店]]より、本人曰く「クラいGS少年だった私の総決算報告書」という『'''熱狂! GS図鑑'''』を上梓。有名無名を問わず、大手レコード会社からデビューしたGSの大半について、それらのディスコグラフィーを網羅したもので、「B級GS」「一人GS」といった概念は本書に由来するものである。
[[1992年]]、この年より順次リリースが始まった、「B級GS」の楽曲のみを集めたコンピレーション・アルバム『'''カルトGSコレクション'''』を、シリーズを通して監修及び解説。
[[1994年]]、「熱狂! GS図鑑」に自主製作盤などの新たに発掘・判明した分を増補した形で、「長年の研究の成果」として『'''日本ロック紀GS編'''』を[[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコー・ミュージック]]より上梓。ここに至るまでにはグループ・サウンズをめぐる状況も大きく変わり、
2007年4月19日、肺炎により急逝。享年52。
== 黒澤によるグループ・サウンズの分類及び評価 ==
==== グループ・サウンズの「定義」 ====
黒澤が自著で行ってきたグループ・サウンズ(以下GS)の分類や定義は、飽くまでも後天的なものであり、かつ黒澤のファンとしての思い入れも含めた独断のものである。
その全盛期当時、GSの定義は特に明確ではなく、曖昧であった。楽器を演奏しながら唄うグループを全てひっくるめて、[[ムード歌謡]]コーラスのグループ<!-- 例)1967年11月10日付け「名古屋タイムズ」の記事『黒澤明とロス・プリモスが来社』で「クラウン・レコード専属のグループサウンズ」と紹介 -->や果ては海外の[[ロックバンド]]<!-- 例)「週刊平凡」1967年7月11日号『10月に東京で!! ザ・タイガースが「イギリスのGサウンズ」ビー・ジーズと夢の共演』 -->に至るまで「グループ・サウンズ」と称した事例もあった。さらには楽器を持たないコーラスグループでさえもGSに分類されたケースもある<!-- 例)[[フォーリーブス]] -->。
そこで黒澤は自著において、基本的なGSの「定義」を、[[ビートルズ]]など欧米で流行した音楽に影響を受けた形の「ボーカル・アンド・インストゥルメンタルグループ」としていた。また、GSの「起源」を、[[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]]や[[ザ・スパイダース]]がそれぞれ[[ポップス]]に傾倒したオリジナル作品を[[洋楽]]レーベルから発表した、[[1966年]]初頭の時点と位置付け、さらにその「終期」を、[[フォークソング#日本のフォーク|フォークソング]]や[[ニュー・ロック]]などの次のムーブメントに取って代わられ、GSという形態が殆ど見られなくなった[[1970年]]としていた。これより時期的には、1966年から[[1969年]]までにデビューしたグループを紹介していた(厳密には1966年以前にデビューしたグループもいくつか含まれるが、そうしたグループについては、1966年以前に発表したレコードの紹介を基本的に割愛していた)。
具体的には、「熱狂! GS図鑑」では『'''ボーカルと演奏が同じ比重でメンバー自身によって行われる音楽'''』<!-- 『(ブルーコメッツの「青い瞳」、スパイダースの「ノー・ノー・ボーイ」は)エレキバンドとしては画期的な歌入りのレコードであり、メンバーによる作曲で、しかも既成の邦楽のレーベルではなく、れっきとした洋楽のレーベルから発売されたものであった。この(レコードが出た19)66年2・3月という時点を日本におけるボーカル&インストゥルメンタルグループ、すなわちグループサウンズ成立の起源とみなしてさしつかえないだろう』 -->、また「日本ロック紀GS編」においては『'''1966年から(19)69年にかけて日本に登場してきた、ロック/ポップをレパートリーとする、電気楽器主体の小編成(概ね4~6人)の演奏歌唱集団'''』と、GSの「定義」を紹介している。
また「熱狂! GS図鑑」では、下記に示したグループについては、「GSとは言えない」という理由から掲載を除外していた。
*歌謡曲的グループ ([[ピンキーとキラーズ|ピンキラ]]等)
*ロック・[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]・前衛的グループ ([[パワーハウス]]等)
*[[カレッジ・フォーク]]グループ ([[ザ・リガニーズ|リガニーズ]]等)
*アイドル的コーラスグループ ([[ジャニーズ]]等)
*時期的に早すぎるもの ([[東京ビートルズ]]等)
*時期的に遅すぎるもの ([[PYG]]等、1970年以降にデビューしたグループ)
これらの「定義」や除外分の扱いについては、自著のなかでは基本的にずっと変わることはなかった。
==== 「歌謡曲化」前と「歌謡曲化」後 ====
前述のとおり、GSにのめり込むようになる発端が「日本語で洋楽っぽいものが聞ける」ことだったため、黒澤はGS初期(主に1966年~1967年)の「古き良きGSと[[リバプールサウンド]]の蜜月時代」(黒澤談)に強い思い入れがあり、さらに黒澤は「日本的な制約のなかで行われた洋楽志向こそGSの魅力<!-- 形はともかく、当時の海外の流行りの音楽を貪欲に取り入れたうえで、洋楽に程近いものを目指した曲を作りセールスポイントとした点 -->」とまで言い切っていた。<br>
そういった視点や主張が根幹にあったため、黒澤の著書では、洋楽志向が根強かったGS初期から中期までが重点的に紹介されていた。
それゆえに、[[1968年]]後期より顕著になってきたGSの「歌謡曲化」(従来の歌謡曲への同化)に対しては、GSの良さであった洋楽志向を破壊しジャンル衰退の一因になったとして、厳しく論じる傾向があった。例えばブルーコメッツに関しては、歌謡曲化の先鞭を付けたとして、「歌謡曲化」以後の評価は非常に辛辣である。
ただし自身の晩年になってからは、「歌謡曲化」後に現われた、GSによるムード歌謡調の作品及び歌謡曲に傾倒したグループに関して「(GSの本筋からは外れるが)これはこれで、また違った魅力があって面白い」<!-- コンピレーションCD「蒼いムードのGSナイト」のライナーから -->などと、軟化したかのような評価を行うケースも見られた。
== 参考資料 ==
|