「遠藤基信」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Point136 (会話 | 投稿記録)
m bot:導入部などのスタイル修正
編集の要約なし
1行目:
'''遠藤 基信'''(えんどう もとのぶ、[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])- [[天正]]13年10月21日([[1585年]]))は、[[伊達氏]]の家臣。'''不入斎'''の号を好んで用いた。子に[[遠藤宗信]]がいる。
 
「伊達世臣家譜」によれば、基信は[[信夫郡]](現在の福島市)[[八丁目城]]下西光寺の住職の子であるという。若いころは諸国を巡り、その後[[米沢城|米沢]]を訪れ、伊達家に仕えたという。はじめは[[中野宗時]]の家臣であったが、宗時が[[伊達輝宗]]に謀反を起こしたとき、宗時の謀反を直前に密告したことを輝宗に賞されて、輝宗配下の宿老として取り立てられた。このとき、1500石の所領を与えられている。
 
基信は行政手腕に優れており、後に[[伊達政宗]]の[[軍師]]となったことで有名な[[片倉景綱]]を推挙したり、[[織田信長]]、[[徳川家康]]、[[北条氏照]]、[[柴田勝家]]らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行なったりしている。信長と積極的に交誼するよう輝宗に進言したのは基信であり、輝宗は信長へ鷹や馬などの奥羽の特産を頻繁に贈っている。これらのことより、基信は輝宗政権時の伊達氏のなかでは家臣団を代表する立場であったといえる。1585年、輝宗が[[二本松義継]]に拉致されて殺された後、死去した。輝宗の[[忌日]]の10月21日に輝宗の墓前で自刃したと言われている。墓は[[山形県]][[高畠町]]夏刈・[[資福寺]]跡の輝宗の墓の隣に建てられている。
 
== 関連項目 ==
*[[神山繁]]-NHK大河ドラマ「[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]」で基信を演じた。
 
 
[[Category:戦国武将|えんとうもとのふ]]
[[Category:高畠町|えんとうもとのふ]]
[[Category:米沢市|えんとうもとのふ]]
[[Category:1532年生|えんとうもとのふ]]
[[Category:1585年没|えんとうもとのふ]]