「サイリーン (競走馬)」の版間の差分

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|性 = [[牡馬|牡]]
|色 = [[馬の毛色#栗毛|栗毛]]
|英 = {{lang|en|Cyllene}}
|種 = [[サラブレッド]]
|生 = [[1895年]][[5月28日]]
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|母 = アルカディア
|産 = チャールズ・デイ・ローズ
|国 = [[イギリス]]{{GBR}}
|主 = チャールズ・デイ・ローズ
|調 = ウィリアム・アーサー・ジャーヴィス
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|金 =
}}
'''シリーン'''(''{{lang|en|Cyllene}}'')は、[[イギリス]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]。[[1890年]]代末に活躍した。[[クラシック (競馬)|クラシック]]登録がなかったためクラシック競走には出走していないが、[[ゴールドカップ|アスコットゴールドカップ]]、[[ジョッキークラブステークス]]に勝った。種牡馬としてもイギリスで2回、[[アルゼンチン]]で1回[[リーディングサイアー]]となった。馬名は母[[アルカディア]]に因む
 
種牡馬としてもイギリスで2回、[[アルゼンチン]]で1回[[リーディングサイアー]]となった。馬名は母アルカディアに因み、[[ギリシア神話]]に登場する[[ヘルメス]]の[[キュレーネー]]山からとられたものである。
遅生まれの上成長が遅れたためチャールズ・デイ・ローズはこの馬をクラシック登録せず、成長したシリーンを見てチャールズは後悔したと言われている。負けたレースは2歳、3歳時に1度ずつだけで、クラシックには出走権がなかったが、後の[[ダービーステークス]]優勝馬ジェダーをニューマーケットステークスで破り、同年ジョッキークラブステークスを圧勝した。翌年は当初から[[ゴールドカップ|アスコットゴールドカップ]]を目指し、ここを8馬身差で圧勝。レース後に引退を発表した。
 
== 経歴 ==
種牡馬入り後は種付け申し込みが殺到し、初年度の種付け料は150ギニーにまで高騰したが、その初年度産駒は僅か2勝に終わる悲惨な結果に終わった。[[1905年]]にはキケロがダービーステークスに勝ったものの失敗種牡馬の評価は変わらず[[1909年]]にはアルゼンチンに2万5000ギニーで輸出される結果となった。だが、輸出後にエプソムダービー馬を3年連続で輩出、1909年と1910年にはリーディングサイアーを獲得した。また、産駒の一頭ポリメラスは後に種牡馬として成功し、シリーンの[[サイアーライン]]を伸ばしていった。輸出先のアルゼンチンでも[[ナシオナル大賞]](亜ダービー)馬を3頭送り出すなど成功している。1924年に供用地であるオホデアグア牧場で倒れ寝たきりとなったが30歳まで生きた。性格は極めて温和で常に人を気遣うほどであったと伝えられている。
遅生まれの上成長が遅れたためチャールズ・デイ・ローズはこの馬をクラシック登録せず、成長したシリーンを見てチャールズは後悔したと言われている。負けたレースは2歳、3歳時に1度ずつだけで、クラシックには出走権がなかったが、後の[[ダービーステークス]]優勝馬ジェダーをニューマーケットステークスで破り、同年ジョッキークラブステークスを圧勝した。翌年は当初から[[ゴールドカップ|アスコットゴールドカップ]]を目指し、ここを8[[着差 (競馬)|馬身差]]で圧勝。レース後に引退を発表した。
 
種牡馬入り後は種付け申し込みが殺到し、初年度の種付け料は150[[ギニー]]にまで高騰したが、その初年度産駒は僅か2勝に終わる悲惨な結果に終わった。[[1905年]]には[[キケロ (競走馬)|キケロ]]がダービーステークスに勝ったものの、失敗種牡馬の評価は変わらず、[[1909年]]には[[アルゼンチン]]に2万5000ギニーで輸出される結果となった。
 
種牡馬入りだが輸出は種付け申し込みが殺到しになって初年度の種付け料は150ギニーにまで高騰てきが、その初年度産駒は僅の中2勝に終わる悲惨な結果に終わった。[[1905年]]にはキケロがダービーステークスに勝ったものの失敗種牡馬の評価は変わず[[1909年]]にはアルゼンチンに2万5000ギニーで輸出される結果となった。だが、輸出後にエプソムダービー馬を3年連続で輩出、1909年と1910年には[[リーディングサイアー]]を獲得した。また、産駒の一頭[[ポリメラス]]は後に種牡馬として成功し、シリーンの[[サイアーライン]]を伸ばしていった。輸出先のアルゼンチンでも[[ナシオナル大賞]](亜ダービー)馬を3頭送り出すなど成功している。1924年に供用地であるオホデアグア牧場で倒れ寝たきりとなったが30歳まで生きた。性格は極めて温和で常に人を気遣うほどであったと伝えられている。
 
1924年に供用地であるオホデアグア牧場で倒れ寝たきりとなったが、30歳まで生きた。性格は極めて温和で常に人を気遣うほどであったと伝えられている。
 
== 競走成績 ==
;1897年(5戦4勝)
* ナショナルブリーダーズプロデュースステークス、1000ソヴリンウォースステークス、トリエニアルステークス、セフトンパークプレート
;1898年(4戦3勝)
* ジョッキークラブステークス、ニューマーケットステークス、サンダウンフォールステークス
*1899;1899年(2戦2勝)
* アスコットゴールドカップ、トリエニアルステークス
 
== 主な産駒 ==
* [[ミノル (イギリスの競走馬)|ミノル]](エプソムダービー、[[2000ギニー]]
* [[ポリメラス]](チャンピオンステークス、英リーディングサイアー6回)
* タガリー(エプソムダービー、[[1000ギニー]]
* [[キケロ (競走馬)|キケロ]](エプソムダービー)
* レンバーグ(エプソムダービー)
* セントエミリオン(ナシオナル大賞)