削除された内容 追加された内容
Carbuncle (会話 | 投稿記録)
m →‎柳生氏、大名への歴史: 戦国時代 (日本)|
11行目:
 
== 宗矩の出世 ==
宗矩は宗巌の五男である。それがなぜ、[[徳川氏]]に仕えることとなったのかと言うと、長男の[[柳生巌勝]]は久秀配下として[[筒井順慶]]と戦ったとき、戦傷を負い、次男の[[柳生久斎]]と三男の[[柳生徳斎]]は僧侶となり、四男の[[柳生宗章|柳生五郎右衛門]]は他家[[中村一氏]]に仕官していたからである。
 
家康に仕えた宗矩は、大いに活躍した。[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍の後方攪乱作戦も務めた。翌年、その功績により旧領2000石に加えて新たに1000石を加増され、[[徳川秀忠]]の兵法指南役となる。ちなみに、宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。[[1614年]]の[[大坂冬の陣]]では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の[[大坂夏の陣]]では秀忠の身辺警護を務め、敵兵7名を斬り殺した。