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'''甘利荘'''(あまりのしょう)は、[[甲斐国]][[巨摩郡]]の[[荘園]]。
東寺に引き継がれてから法荘厳院領が甘利庄となる
 
東寺に引き継がれてから法荘厳院領が甘利庄となる。[[平安時代]]後期には[[甲斐源氏]]の一族が甲斐国各地の荘園管理者として進出するが、甘利荘には棟梁である[[武田信義]]の子一条[一条忠頼|[忠頼]]が拠り、荘域に居館を構えて[[甘利氏]]を称したといわれ、[[韮崎市]]旭町上条北割の大輪寺境内が館跡とされている。甘利氏は戦国期には武田氏の譜代家臣となっており甘利荘は忠頼の系統が領していたと考えられているが、鎌倉時代に[[甲斐一条氏]]は[[源頼朝]]の粛正を受け衰亡しており、甘利氏の系譜も明らかではない。鎌倉後期には北条得宗家領であったことが確認されている。
甘利氏三十八代当主は甘利晴彦氏である。
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[[Category:山梨県の歴史]]