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'''サイイド・サイード・ビン・スルタン・アル・サイード'''('''Sayyid Said bin Sultan Al-Said'''、[[1797年]][[6月5日]] - [[1856年]][[10月19日]])は、[[オマーン]]の[[ブーサイード朝]]第5代スルタン。在位[[1804年]][[11月20日]]~[[1856年]][[10月19日]]。オマーンの最盛期を現出し、'''サイード大王'''とも呼ばれる。オマーンの勢力を東アフリカにまで広げ、オマーン海上帝国と呼ばれる大交易帝国を築き上げた。
 
===東アフリカへの進出===
サイードが即位したとき、オマーン本土の経済は少しずつ衰えていた。[[18世紀]]には[[エジプト]]の政情不安によって[[ペルシア湾]]経由での交易が盛んになっており、ペルシア湾交易の喉首を押さえるオマーンの首都・[[マスカット]]は交易船でにぎわったものの、[[19世紀]]になるとエジプトの状態は回復に向かっており、マスカットの賑わいは過去のものとなりつつあった。
 
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[[1828年]]、サイードは自ら旗艦リバプール号(イギリスに注文した帆船)に乗り込み、[[モンバサ]]をはじめとする[[アフリカ]]東部沿岸の諸都市をつぎつぎと攻略し、[[ソマリア]]から[[タンザニア]]にいたる東アフリカの沿岸をオマーン領に組み入れた。
 
===ザンジバルへの遷都===
[[1840年]]、サイードはザンジバルに[[ストーン・タウン]]を建設し、首都を移した。当時ザンジバルは[[奴隷貿易]]の中心地として栄えており、インド洋交易の中心地となっていた。サイードはザンジバルに[[チョウジ]]を移植し、やがてチョウジはザンジバルの特産品としてザンジバル経済を支えることとなった。オマーンは[[帆船]]による大船団を所持しており、欧米諸国とも交易を行い、正式な外交関係も持っていた。ザンジバルには欧米各国の領事館が建てられ、オマーンは[[イギリス]]と並ぶ[[インド洋]]の二大海洋帝国となっていた。