「嵐徳三郎 (7代目)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
おりしも[[関西歌舞伎]]は不振の極みにあったが、その中で有望な若手俳優としてめきめきと力をつけ[[1964年]](昭和39年)9月の仁左衛門歌舞伎公演で片岡孝夫(現[[片岡仁左衛門 (15代目)|仁左衛門]])と共演した『女殺油地獄』のお吉で[[大阪府民劇場奨励賞]]を受賞。その後も十三代目[[片岡仁左衛門 (13代目)|片岡仁左衛門]]、二代目[[中村鴈治郎 (2代目)|中村鴈治郎]]などの引き立てを受け東京の舞台にも出演するようになった。
 
[[1971年]](昭和46年)2月『[[隅田川続俤|法界坊]]』の野分姫で七代目嵐徳三郎を襲名。徳三郎襲名は大谷会長の肝いりで、名跡を預かる嵐寛寿郎に会長自ら話をつけたという。門閥外でないゆえに歌舞伎にとどまることなく様々な試みに果敢に挑戦することが可能となり芸域を広げていった。1987(昭和62)年[[蜷川幸雄]]演出『[[メディア (ギリシア悲劇)|王女メデア]]』に主演。国内は元より海外公演でも高く評価され、徳三郎最大のヒットとなった。
 
役柄も[[女形]]から[[立役]]、[[色敵]]、[[花車役]]など幅広い役をこなし、上方色の濃い芸風で評価された。2000(平成12)年3月山口県の[[ルネッサながと]]の杮落とし公演での『封印切』おえんに出演中体調を崩し2日目に休演。その後療養に努めたが12月5日入院先の病院で自殺し急逝した。ようやく関西歌舞伎復興が軌道にのり、徳三郎自身、名門[[嵐璃寛]]の[[名跡]]を継ぐ人材として期待されていただけに、徳三郎の死亡は惜しみても余りあるものであった。