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[[334年]]、段遼が[[慕容部]]の徒河を襲撃した際、段蘭と[[慕容翰]]は柳城を襲撃するが、慕容部[[都尉]]の[[石琮]]に撃破される。十日後、段蘭・慕容翰はふたたび柳城を包囲、[[慕容コウ|慕容皝]]は寧遠の[[慕容汗]]及び[[封弈]]等を派遣して包囲を解くが、慕容汗が命令を無視したために大敗し兵の半分を失った。またしばらくして、段蘭は柳城を襲撃するが、石琮に撃破され遁走した。
[[338年]]、[[後趙]]の[[石虎]]は遼西を征し、段遼は平岡山へ奔走、遂に慕容皝に投降するが、謀反を起こし段遼は慕容皝に殺されてしまう。
[[343年]]八月、段蘭は[[宇文部]]の[[宇文逸豆帰|逸豆帰]]に捕まり、石虎のもとへ送られ、遼西郡令支県に駐屯させられた。しかし、段蘭はたびたび挙兵し石虎を患わした。 段蘭が死ぬと、子の[[段龕|龕]]がこれに代わった。
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