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{{告知|節『陳寿伝』の必要性について}}
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'''晋書'''(しんじょ)は[[中国]]晋王朝([[西晋]]・[[東晋]])について書かれた[[歴史書]]。[[二十四史]]の一つ。[[唐]]の[[648年]]に[[太宗 (唐)|太宗]]の命により、[[房玄齢]]・[[李延寿]]らによって編纂された。帝紀十巻・[[載記]]([[五胡]]の[[単于]]・天王・[[皇帝]]に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される[[紀伝体]]。
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上記の理由により『晋書』は史書としての評価は低いものであるが、『三国志』に「地理志」が存在しないことから、三国時代の研究等において「地理志」に限っては『晋書』の記録が多用される傾向がある。
 
 
==『陳寿伝』==
『晋書』の記述内容を示す例として「陳寿伝」が挙げられる。これは『三国志』の編者である[[陳寿]]の伝であるが、この中に「[[魏 (三国)|魏]]の武将の[[丁儀]]の子に対して陳寿が史書の中で好意的な記述を行うことを条件に賄賂を求めたが、丁儀の子はこれを承諾しなかったために『三国志』には「丁儀伝」が存在しない」という逸話がある。
 
しかし、この記述については懐疑的に捉えられている。丁儀は[[220年]]に[[曹丕]]・[[曹植]]の継承争いに介入した結果として一族誅殺滅となり、その子が[[233年]]に誕生した陳寿と同時代の人物であることは否定的に考えられている。また丁兄弟については曹植伝および王粲伝に記されており、特筆すべき事績がない限り史書で独立した伝が立てられないことを考慮すると、その記述が不当な扱いを受けているとは考えにくい。
 
また『晋書』「陳寿伝」には「陳寿の父親([[陳式]]を陳寿の父とするのは俗説)は[[諸葛亮]]が[[馬謖]]を誅殺した際に連座し、また諸葛亮の子の[[諸葛瞻]]も陳寿を軽んじていたたため陳寿は恨み『三国志』に『諸葛亮は応変の将才はその長ずるところに非ず』と記載した」との記述があるが、同様の記述が東晋の[[王隠]]が書いた『晋書』(ここでの二十四史の『晋書』とは別の書物)に書かれている。
 
また東晋の[[孫盛]]が書いた『異同記』に「陳寿が諸葛亮の子の諸葛瞻に恥辱を受けたため、陳寿は根に持って、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと『三国志』に書いた」という逸話が書かれている。
 
これらの記述より陳寿は曲筆の歴史家として後世批判されることになる。後に[[蜀]]が正統王朝とされ、諸葛亮が神秘的な大軍師として描かれるようになると更に批判は強くなり、「逆賊の魏を正当化する逆賊」とまで批判さえるようになった。
 
しかし諸葛亮の評にしても陳寿は諸葛亮の政治的手腕に対しては極めて高い評価を与えており(諸葛亮の最初の伝記・言行録である『諸葛亮集』の編者が他ならぬ陳寿である)、また批判的とされる箇所も、実は『諸葛亮は応変の将才はその長ずるところでは無かったのだろうか?』と疑問を呈した程度であり、全体構成から見れば諸葛亮に対する大々的な賞賛の後に付け加えられた程度の記述に過ぎない。
 
==内容==