「ブラックジャック・マリガン」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
4行目:
| リングネーム = ブラックジャック・マリガン<br />ビッグ・ボブ・ウインダム<br />ビッグ・マシーン
| 本名 = ロバート・ウインダム
| ニックネーム = 黒い猛牛
| 得意技 = [[ブレーン・クロー]]、[[エルボー・ドロップ]]
| 身長 = 200cm
10行目:
| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1942|11|26}}
| 死亡日 =
| 出身地 = {{
| スポーツ歴 = [[アメリカンフットボール]]
| トレーナー = [[バーン・ガニア]]
| デビュー = [[
}}
19行目:
==来歴==
[[ニューヨーク・ジェッツ]]で
各地を転戦し、[[1971年]]に[[インディアナポリス]]でWWA世界タッグ王座、[[1975年]]には[[ニューヨーク]]で[[WWE|WWWF]]世界タッグ王座を獲得。この間に、国際プロレスのIWAワールドシリーズや[[全日本プロレス]]に来日。国際では[[ラッシャー木村]]とワールドシリーズの決勝を争い、全日本では[[ジャイアント馬場]]の[[PWF]]タイトルにも挑戦した。▼
▲AWAに復帰後は、このスタイルの先達である[[ジャック・ランザ|ブラックジャック・ランザ]]と[[タッグチーム]]「'''[[ザ・ブラックジャックス]]'''」を結成。各地を転戦し、
[[1976年]]にランザとのタッグを解消し、[[NWA (プロレス)|NWA]]圏の[[ノースカロライナ州|ミッドアトランティック]]地区で[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として[[ワフー・マクダニエル]]、[[ミスター・レスリング]]、[[リッキー・スティムボート]]、[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]として[[リック・フレアー]]、[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]、[[ビッグ・ジョン・スタッド]]、[[ボビー・ダンカン]]らと抗争。同地区認定のUSヘビー級王座を獲得する。この間、フロリダ地区を転戦した縁から、[[1977年]]より[[新日本プロレス]]に常連外国人の一人として来日するようになる。目立った活躍はなかったが、その渋い風貌と豪快なファイトスタイルで、当時の一部マニアより根強い人気を獲得する(1977年の闘魂シリーズでは[[スタン・ハンセン]]と大型カウボーイコンビを結成。[[1983年]]の新春黄金シリーズでは[[元日|元旦]]に[[後楽園ホール]]で[[アントニオ猪木]]とシングルマッチを行った他、最終戦の[[蔵前国技館]]では[[ハルク・ホーガン]]とも対戦した)。▼
▲[[1976年]]にランザとのタッグを解消し、[[NWA (プロレス)|NWA]]圏の[[ノースカロライナ州|ミッドアトランティック]]地区で
[[1982年]]には[[フレッド・ブラッシー]]を[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]に[[WWE|WWF]]を再び襲撃。当時のWWF王者[[ボブ・バックランド]]に挑戦する一方、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]とスーパーヘビー級の抗争を繰り広げた。日本では報じられることがなかったが、82年[[8月30日]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン|MSG]]定期戦における6人タッグマッチ(アンドレ&[[チーフ・ジェイ・ストロンボー]]&[[フランク・ヒル|ジュールズ・ストロンボー]]VSマリガン&[[マサ斎藤|ミスター・サイトー]]&[[ハリー藤原|ミスター・フジ]])では、アンドレを[[ボディスラム]]で投げるという快挙を成し遂げている。▼
▲[[1982年]]には[[フレッド・ブラッシー]]を
[[1984年]]には古巣のAWA地区へ転戦し、同地区にいたブラックジャック・ランザとブラックジャックスを再結成したり、日本でAWA世界ヘビー級王座を奪取し遠征してきた[[ジャンボ鶴田]]に挑戦するなど健在ぶりをアピール。同時期、長男の[[バリー・ウインダム]]もNWAの期待の星として台頭していた。[[1985年]]より改めてフロリダに定着し、当時フロリダ地区に武者修行に来ていた[[武藤敬司]](ホワイト・ニンジャ)と抗争していた次男の[[ケンドール・ウインダム]]育成に力を入れたが、やがてフロリダ地区はWWFに買収される。
[[1986年]]にはWWFのエージェント兼ブッカーとして手腕を振るっていたランザの招きで、ジャイアント・マシーン(アンドレ・ザ・ジャイアント
WWF離脱後はフロリダに戻り、[[ユニバーサル・スタジオ]]内に拠点を置くIWF設立に参画。ブッカー兼務の団体エースとなる。[[マイク・プロチェック|ブレッド・コール]]と[[モンティ・ソップ|キップ・ウィンチェスター]]のロング・ライダーズ(後のスモーキン・ガンズ)もIWFでマリガンに育てられた。しかし、同一行動を取っていた次男と偽札作りの嫌疑を受けて逮捕され、団体も崩壊。しばらく表舞台より消えることとなったが、[[2006年]][[4月1日]]、ランザとのブラックジャックスで'''[[WWE殿堂|WWE Hall of Fame]]'''を受賞。殿堂入りの式典で公の場へ久々に登場し、元気な姿を見せてくれた。
==
* 新日への最終来日は1983年1月だが、アントニオ猪木は[[はぐれ国際軍団]]に加え、前年からの[[長州力]]の反逆に[[キラー・カーン]]の造反が加わった革命軍(後に[[維新軍]])との抗争、並びに[[IWGP]]リーグ戦を控えていて、マリガンとの大きな絡みはなかった。が、プロレス専門誌のインタビューで、「次回は息子と一緒に来る」とリップサービスし、当時既にNWA世界ヘビー級王座の候補の一人に挙げられるほど成長していた未知の強豪バリー・ウインダムの来日実現か?と、新日ファンの注目を浴びた。が、ウインダムは同年11月に全日本プロレスに初来日。その後[[1985年]]新日と提携関係にあったWWF入りしても来ず、新日ファンは[[WCW]]と提携した関係で来日した[[1991年]]まで8年間待たされる結果となった。
* 1983~1984年当時、全日本プロレス中継では来日外人の紹介や所属日本人選手のUSA遠征で、彼らが新日系外人選手に勝った姿の放映や、インタビュー等でのアピールが多発していた(例:[[ケリー・フォン・エリック]]が[[ミズーリ州]]ヘビー級選手権で[[グレッグ・バレンタイン]]に勝利、[[ハーリー・レイス]]が[[ハルク・ホーガン]]を相手にNWA世界ヘビー級王座を反則防衛)。同時期、鶴田がマリガン相手にAWA世界ヘビー級王座を防衛しているにも関わらず、その件については全く触れられなかった。全日に何らかの意図があったのか、その理由は不明である。
* 見事、WWE殿堂入りしたランザとのブラックジャックスだが、不思議なことに一度もチームで来日を果たすことがなかった。
* ファンや関係者の間では、マリガンは[[ストリートファイト]]においてはプロレス界でも最強クラスだったと評されており、同じく喧嘩の強さでは定評のあったハーリー・レイスや[[ブルーザー・ブロディ]]からも一目置かれていたという。ちなみにブロディとは[[80年代]]前半、[[ジョージア州|ジョージア]]や[[テキサス州|テキサス]]([[ダラス]])などで単発的に抗争を展開していた。
* [[佐山聡|佐山サトル]]が「サミー・リー」のリングネームで英国遠征中に、ブラック・ジャック・マリガンという選手と対戦している(複数のプロレスグッズのショップが発売していたお宝映像集に入っている)。しかし、コスチュームが同じだけで顔や体格はまったく別人であり、リングネームのスペルも少し違っている。
* 『ビッグな男がビッグな話をするのには、ビッグな男がいれば充分だ』が座右の銘である。
44 ⟶ 45行目:
==得意技==
*[[アイアンクロー|ブレーン・クロー]](代名詞ともいえる技だけに、ビッグ・マシーン変身時は封印していた)
*[[エルボー・ドロップ]](カウンター式の[[エルボー・バット]]も得意とする)
*[[ニー・ドロップ|ダイビング・ニー・ドロップ]](WWWF世界タッグ王座獲得時のフィニッシュ技でもある)
*[[アルゼンチンバックブリーカー|アルゼンチン・バックブリーカー]](新日本参戦時は、この技で猪木を苦しめた)
==主要タイトル歴==
|