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'''呉 班'''(ご はん、生没年不詳)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。[[蜀]](蜀漢)の[[武将軍人]]。[[字]]は'''元雄'''。[[大将軍]]・[[何進]]に仕えた陳留郡の人。父は[[呉匡]]の子で、同じく蜀漢に仕えていた[[呉懿]]の族弟に当たる。また'''呉夙'''(呉懿の父)は族父に当たる。彼は「男伊達」として知られていた
 
呉匡[[後漢]]の[[大将軍]]・[[何進]]に仕えた人物である。一族に[[呉懿]]、[[穆皇后呉氏]](蜀漢の祖である[[劉備]]の妻)がおり、従兄の呉懿と共に蜀漢の外戚に当たる人物でありな、『三国志』に個別の伝は立てられていない。
==略要==
===生涯===
[[劉備]]の下で領軍を勤めた。[[222年]]、劉備が[[呉 (三国)|呉]]に侵攻を開始した時、それに従軍して[[馮習]]と共に巫県で呉将の[[李異]]・[[劉阿]]らの軍勢を撃破している([[夷陵の戦い]])。
 
===生涯===
[[劉禅]]の時代に督後部・後将軍に昇進している。[[諸葛亮]]に率いられ[[魏 (三国)|魏]]を攻めた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書諸葛亮伝の注に引く『漢晋春秋』によると、[[魏延]]・[[高翔]]と共に[[司馬懿]]率いる魏軍を大いに撃退した。
[[188年]]の[[劉焉]]の益州行きに呉懿の一家と共に同行した。やがて「男伊達」として知られるようになる。一族の[[穆皇后呉氏|女子]]を通じて劉焉・[[劉璋]]父子やその後益州を支配した[[劉備]]と縁戚関係となる。劉備の時代には呉懿に次ぐ待遇を受け、領軍まで昇進した。劉備が[[呉 (三国)|呉]]に侵攻を開始した時、それに従軍して[[馮習]]と共に巫県で呉将の[[李異]]・[[劉阿]]らの軍勢を撃破している([[夷陵の戦い]])。また、劉備に囮として呉軍を挑発する任務を命じられたが、これは[[陸遜]]に看破されたため失敗に終わる。
 
劉備の子の[[劉禅]]の時代に督後部・後将軍に昇進し、丞相[[諸葛亮]]の北伐に参加し[[魏延]]・[[高翔]]と共に[[司馬懿]]率いる魏軍を大いに撃退する功績を挙げた(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書諸葛亮伝の注に引く『漢晋春秋』)。諸葛亮の没後次第に昇進して[[驃騎将軍]]・仮使節になり、緜竹侯に封じられた。
 
彼は従兄の呉懿と共に蜀漢の外戚に当たる人物でありながら、『三国志』に個別の伝は立てられていない。
 
==演義での呉班==