「松前道広」の版間の差分

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{{武士/氏族|[[松前氏]]}}
{{武士/父母|父:[[松前資広]]、母:[[八条隆英]]の娘}}
{{武士/兄弟|'''松前道広'''、[[池田頼完]]、[[勝田武広]]、<br />蛎崎広文、[[蠣崎波響|蛎崎広年]]、古田信真}}
{{武士/妻|正室:[[花山院常雅]]の娘}}
{{武士/子|[[松前章広]](長男)、蛎崎広匡(次男)、<br />杉村治義(三男)、松前広純(四男)、<br />娘(藤倉保春室)、娘(小林義明室)}}
 
宝暦4年(1754年)、7代藩主・松前資広の長男として生まれる。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったという。父の死去に伴い、[[明和]]2年([[1765年]])に[[家督]]を相続。[[一橋治済]]、伊達家・島津家など反幕閣の人々と交友し、[[吉原遊廓|吉原]]の遊女を妾にするなど遊興費も多かった。そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、何度も幕府から注意されていたという。
 
対外的には強硬で、[[ロシア]]からの通商要請を拒否。[[寛政]]元年([[1789年]])には、[[国後島]]や目梨地方で起こった[[アイヌ]]の反乱に[[新井田正寿]]・[[松井広次]]らを派遣して鎮圧した([[クナシリ・メナシの戦い]])[[寛政]]4年([[1792年]])に[[隠居]]し、天保3年(1832年)死去した。
 
== 関連項目 ==
 
 
{{先代次代|[[蠣崎氏#松前氏|松前氏当主]]([[松前藩|松前藩8代]])|1765~17921765 - 1792|[[松前資広|松前資廣]]|[[松前章広|松前章廣]]|}}
 
{{DEFAULTSORT:まつまえ みちひろ}}