「蔡鍔」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →参考文献 |
編集の要約なし |
||
1行目:
{{中華圏の人物
| 名前=蔡鍔
| 画像=
| 画像の説明=
| 出生=[[1882年]][[12月19日]]
| 死去=[[1916年]][[11月8日]]
| 出身地=[[湖南省]][[邵陽市|宝慶県]]
| 職業=`軍人・政治家
| 簡体字=蔡锷
| 繁体字=蔡鍔
| ピン音=Cài È
| 通用=
| 注音=
| 注音二式=
| 和名=さい がく
| 発音=ツァイ オー
}}
'''蔡鍔'''(さい がく)は[[清|清末]][[中華民国|民初]]の軍人、政治家。中華民国の初代[[雲南省|雲南]]都督。原名は'''艮寅'''、字は'''松坡'''。
== 事跡 ==
=== 清末の事跡 ===
幼時から私塾で学び、[[
以上のように、蔡鍔は広西省で軍事の要職に就き、軍近代化の改革にも積極的だったが、広西省の革命派からは蔡鍔は清朝擁護と目されたようである。この年の10月に革命派主導の蔡鍔追放運動が始まり、蔡鍔は雲南省へ異動することになった。しかし実際には、蔡鍔は[[黄興]]との間で交流を持ち、革命派団体の組織に密かに従事するなど、広西省赴任期間でも明確に革命派の姿勢を保っている。その一方で、広西省にある間に、蔡鍔は[[中国同盟会]]に入会したとされるが、否定する説もある。
=== 辛亥革命から護国戦争へ ===
[[
[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年
袁世凱死去後の6月に四川督軍兼省長となった。しかし結核に冒され、日本に行き、[[福岡]]で治療を受けていたが、11月8日に死去した。享年35(満33歳)。
== 経歴 ==
=== 党・団体 ===
*1906年(光緒32
*1912年(民国
**8月、統一共和党を離党
*1913年(民国2
=== 政府 ===
*1911年(宣統3
*1912年(民国
*1913年(民国2
**11月5日、行政会議議員
*1914年(民国3
**6月、昭威将軍
**7月、陸海軍大元帥統率弁事処弁事員
**12月、全国経界局督弁
*1916年(民国5
**6月24日、〔北京政府〕益武将軍
**7月6日、〔北京政府〕四川督軍兼省長(同年8月7日、辞任)
=== 軍 ===
*1904年(光緒30
*1905年(光緒31
**8月、広西新軍総参謀官兼教練官兼随営学堂総理官
**9月、兼巡撫部院総参謀官
**10月、兼広西測絵学堂堂長
*1907年(光緒33
**3月、兼広西兵備処総弁
*1908年(光緒34
*1909年(宣統
*1910年(宣統2
*1911年(宣統3
*1915年(民国4
== 参考文献 ==
*[[謝本書]]『討袁名将-蔡鍔』蘭州大学出版社、1997年
*劉
{{先代次代|雲南都督|[[1911年]]11月 - [[1913年]]12月<br>(1913年9月から唐継尭署理)|(創設)|[[唐継尭]]}}
|