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超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
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[[山形県]][[山形市]]生まれ。
 
父親が両足が不自由になり、母親は農村で「一銭店」と呼ばれる雑貨屋を営むことになる。毎晩、酔っぱらった農民たちが押し寄せ、飲めや歌え卑猥な踊りをやる状態で農民への憎悪を抱く。「庶民の醜さ、汚さ」を知り、インテリが陥いりがちな民衆への無条件な賛美とは一線を画する後の活動の原点となる。
 
[[早稲田大学]]文学部在学中に、映画監督[[小川紳介]]の小川プロダクション結成に参加、[[1968年]]、「日本解放戦線 [[三里塚闘争|三里塚]]の夏」の演出助手を務めた。だが、「大地主の孫」としての小川の、贖罪意識から発している「農民賛歌」の偽善性に耐えられず、小川プロを離脱(小川紳介への批判は、[[藤吉雅春]]『ノンフィクションを書く』(ビレッジセンター)中にある吉田へのインタビューで、詳細に語られている)。
 
[[1970年]]から[[水俣市|水俣]]に住み、胎児性の[[水俣病]]患者らと若衆宿を組織。国の補償金を貰った水俣病患者たちの生態を赤裸々に描いた最初の著作『下下(げげ)戦記』で、1988年、[[大宅壮一ノンフィクション賞]]を受賞。
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美しいとされているものの実態を暴く手法に特徴があり、[[1993年]]の『ひめゆり忠臣蔵』では、戦争哀話として知られる沖縄の[[ひめゆり学徒隊]]について、それが戦争協力の部隊であったことを、揶揄するような文体で描いて抗議を受け、改訂した。
 
また[[1997年]]の『宮澤賢治殺人事件』では、生誕百年([[1996年]])を期して[[宮沢賢治]]を賛美する関連書籍が数多く出る中、賢治が国粋主義的な仏教団体である[[国柱会]]に属していたことから長生していれば戦争に協力した可能性や、農民への無償の奉仕や文化活動を試みた[[羅須地人協会]]の非現実性を指摘した。さらに自身の母親が、賢治没後の宣伝に一役買ったことにも触れて偶像破壊を行い、物議を醸した。『[[批評空間]]』では[[柄谷行人]]が吉田を呼んで討論を行い、賢治を批判、同時に、その頃『最新宮澤賢治講義』を刊行した[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]は、それまで協働的立場にあった柄谷から批判されることになった。
 
== 著書 ==