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[[1923年]](民国12年)、[[唐継虞]]率いる滇軍(雲南軍)が貴州へ進攻してきたため、袁祖銘は[[貴陽市|貴陽]]を退出する。王天培は、孫文の広州軍政府への合流を主張したが、袁はこれを聞かず、[[四川省]]での勢力拡大を図る。王も已む無くこれに従い、[[重慶市|重慶]]近隣の[[江津区|江津]]、[[銅梁県|銅梁]]に駐屯した。王は匪賊討伐などにより現地の民心掌握に成功している。
 
その後、勢力を盛り返した袁祖銘は、雲南の[[唐継尭]]と和解して貴陽に戻ることになり、王天培もこれに従った。[[1925年]](民国14年)2月、王は貴州督弁に任命され、翌年6月までその地位に在った。しかし、王天培は実際には貴陽には留まらず、故郷の天柱を中心とする貴州東南部に割拠した。省政は、同僚で貴州省長に任命された[[彭漢章]]に委ねられた。
 
=== 北伐の最中の粛清 ===