「地下鉄道 (秘密結社)」の版間の差分

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*秘密の合い言葉は「友達のいる友達」(“A Friend with Friends”)
 
自由黒人で商人だった[[ウィリアム・スティル]](William Still, 1821-1902)は「地下鉄道の父」と呼ばれ、月に60人の頻度で、総計で何百人もの奴隷が亡命するのを助けた。ペンシルニア州[[フィラデルフィア]]にある自宅に奴隷たちをかくまうこともあった。スティルは、また、助けた元奴隷たちの伝記などをこまめに記録しており、亡命後の奴隷たちとも文通を続けた。さらに、その元奴隷たちの家族への手紙を届け、彼らとその家族との間の音信を守った。スティルはこの経験を『地下鉄道』という題名の本で[[1872年]]に出版した。
 
地下鉄道の組織内でのメッセージの交換では専門用語が使われ、関係者以外は理解できないようになっていた。例えば、「2時に、大きなハム4つと小さなハム2つ、『経由で』送りました」という伝言は、一見「大人4人と子供2人を[[ハリスバーグ_ (ペンシルニア州)|ハリスバーグ]]から[[フィラデルフィア]]に送った」を意味するが、実は、「経由で」を加えることによって、普通の鉄道で移動したのではなく「[[リーディング (ペンシルニア州)|リーディング]]経由で」移動したことを意味していたのだ。だから、この伝言を入手した公共事業団体は、奴隷が亡命する前に捕まえようと通常の鉄道の駅で待ち伏せしたが、スティルは別の場所で奴隷たちと落ち合うことができ、後に彼らをカナダに無事に亡命させた。
 
[[1820年代]]に地下鉄道が発達する以前の[[1600年代]]にはすでに奴隷たちが、補助を得ても得なくても、主人のもとから逃げ出していた。[[メリーランド州]]と[[オハイオ州]]で運営されていたアメリカ合衆国初の商業用鉄道「東西[[ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道]]」は、偶然にも北へ向かう地下鉄道と交差していた。
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ただ、研究者の間では、この歌は奴隷制時代に遡るものではなく、後に作られた歌だとする考えが支配的である。
 
主な道筋には、[[アパラチア山脈]]の東側へ、[[ペンシルニア州]]や[[ニューヨーク州]]を経由してナイアガラ半島へ、[[オハイオ州]]と[[ミシガン州]]を経由してウィンザーへといったものがあった。また、[[リオグランデ川]]を南に渡る道筋(後述)や、西方向へ、開拓されたばかりの領土に続く道筋もあった。
 
特にオハイオ州は地下鉄道の活動の上で最も重要な州であった。北部の自由州と南部の奴隷州とを分ける境界線上にあった[[オハイオ川]]北岸には、[[シンシナティ (オハイオ州)|シンシナティ]]、[[リプリー (オハイオ州)|リプリー]]、[[ポーツマス (オハイオ州)|ポーツマス]]など、対岸の奴隷州であった[[ケンタッキー州]]から川を渡って逃亡してきた奴隷を保護する拠点がいくつも存在した。そして州内の至るところに、これら河岸の拠点で保護した奴隷をさらに北へ逃亡させるルートが網の目のように張り巡らされていた。