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当時、雲南の洱海地区(現代の雲南省[[大理ペー族自治州|大理]])には六詔と呼ばれる政治権力があった。詔(チャオ)は王を意味する[[タイ語]]、チャオ(このチャオという言葉自体、中国語の「主」の借用語であるとする説もある。)に関連すると考えられるが、彼らは烏蕃と呼ばれる[[チベット・ビルマ語族]]であった。六詔の最南部に位置する蒙舎詔は初代・細奴羅が7世紀半ばに唐に朝貢したことが記録されており、第4代の皮羅閤という者が唐朝の後押しを得て六詔の統一に成功する。738年に唐は皮羅閤を雲南王に冊封しており、この年を南詔建国と見ることができる。
 
蒙舎詔は六詔の南部にあったことから南詔と称したものである。皮羅閤はさらに滇池地区(現在の雲南省昆明)にまで勢力を拡大し、雲南全体の統一に乗り出した。南詔の予想以上の勢力拡大によって西南交易ルートを南詔に抑えられる形となった唐朝には面白いはずく、南詔は次第に唐と対立するようになった。
 
== 吐蕃との同盟 ==
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