「多田頼貞」の版間の差分

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「頼光9代の嫡孫」~という記述は松寿寺の記録などにもみえている表現なので、系譜に関する記述は<references />としておきます。
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[[鎌倉幕府]]滅亡後の[[建武の新政|建武の中興]]の折、勤士の功により[[摂津国]][[能勢郷]][[目代]]となるが、[[足利尊氏]]が帝に反旗を翻すと各地を転戦。[[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])には山城八幡([[京都府]][[八幡市]])、[[興国]]元年/暦応3年([[1340年]])には[[後村上天皇]]の命により[[脇屋義助]]を補佐し、共に[[伊予国]]へ出兵して[[細川氏]]に戦いを挑んだ。緒戦は優勢に進めたものの兵力差が大きすぎるため敗北し、[[備前国]]に逃れた。
 
備前国では浜野([[岡山市]][[南区 (岡山市)|南区]]浜野)や網浜(岡山市[[中区 (岡山市)|中区]]網浜)付近を拠点とし、近隣の[[豪族]]を味方に付けて勢力を盛り返しつつあったところ、興国4年/康永2年(1343年)に[[赤松氏]]の軍勢が来襲し備前国網浜([[網浜の戦い]])で1度は撃退したが、2度目の来襲時に裏切者がでて敗退し進退窮まり、摂津国にいる嫡男[[多田頼仲|頼仲]]に「多田家は累世未だ武家に仕えたる先例が無い、もし将軍に仕えるなら氏を能勢に改めて仕えよ」と遺言し8月12日に自害した。
 
足利尊氏は後にそのことを聞き頼貞の勤王心に感涙し頼仲に能勢の所領を安堵するとともに備前17郷を与えたという。文献で見る限り、義理人情に厚く、人使いの上手い人物であることが伺える。