「将軍継嗣問題」の版間の差分

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===継嗣決定前に将軍が死去したケース===
*[[鎌倉幕府]]3代将軍・[[源実朝]]の後継問題
:実朝には実子がないまま、甥の[[公暁]]に暗殺され、公暁もまた亡き者にされたため、源家将軍の血統は途絶えた。実朝の生前から、生母の[[北条政子]]は後継者として[[朝廷]]に、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の[[皇子]]を将軍として[[鎌倉]]へ迎えたい旨を打診していた。政子の弟で[[執権]]の[[北条義時]]は実朝の死後上洛し、重ねて皇子東下を願い出るが、後鳥羽院は拒否。次善の策として[[摂関家]]から[[九条道家]]の子・[[藤原頼経|三寅]](後の頼経)を4代将軍として迎え入れることとなった([[摂家将軍]])。その後、[[承久の乱]]を経て執権権力を確立した北条氏は、頼経と子の[[藤原頼嗣|頼嗣]](5代将軍)を[[京都]]へ追放し、念願の[[宮将軍]]・[[宗尊親王]]を得ることになる([[宮将軍]])
*室町幕府4代将軍・'''[[足利義持]]'''の後継問題
:義持の嫡男・[[足利義量|義量]]は病弱であり、5代将軍となって間もなく死去した。しかし義持はその後、後継者を定めず自ら政務を執り続けたため、次代将軍は決まらないままであった。やがて病を得て危篤状態となった義持に、[[管領]][[畠山満家]]や[[護持僧]][[満済|三宝院満済]]らがくじ引きによって後継を選ぶことを承諾させ、義持の死後[[石清水八幡宮]]において神籤が催され、義持の弟である[[梶井義承]]・[[大覚寺義昭]]・[[虎山永隆]]・[[足利義教|青蓮院義円]]の4人の候補の中から、義円が選ばれた。義円は還俗して義宣(のち義教)と名乗って6代将軍となる。