「アフォンソ5世 (ポルトガル王)」の版間の差分

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'''アフォンソ5世'''('''Afonso V'''または'''Affonso V''', [[1432年]][[1月15日]] - [[1481年]][[8月28日]])は、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(在位:1438年 - 1481年)。[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ1世]]と[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]]の娘[[レオノール・デ・アラゴン (ポルトガル王妃)|レオノール]]の子。'''アフリカ王'''(Africano)と呼ばれる。
 
父王の急な逝去により、わずか6歳で即位した。王の遺言により王妃レオノールが摂政となったが、外国人ということで国民に支持されず、[[コルテス (身分制議会)|コルテス]](議会)はドゥアルテ王の弟[[ペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公)|コインブラ公ペドロ]]王子を摂政に選んだ。
 
ペドロ王子は善政を行い、庶出異母弟のバルセロス伯アフォンソを初代[[ブラガンサ]]公にした(アフォンソは[[ブラガンサ王朝|ブラガンサ家]]の祖となった)。が、コインブラ公に代わり実権の掌握を狙うブラガンサ公は、幼いアフォンソ王に「摂政は王位を狙っている」と吹き込み、王はコインブラ公を敵視するようになった。
 
[[1443年]]、ドゥアルテ1世の弟[[フェルナンド聖王子|フェルナンド王子]]が[[フェズ]]で獄死した。遺骸は城壁から逆さに吊り下げられた。従者たちは遺骸をもらい受けると、遺骨に塩をふりかけ、壷に入れて埋葬した。アフォンソ5世は捕虜にした[[モロッコ]]の貴族たちと交換に、叔父フェルナンド王子の遺骸を取り戻し、1452年[[バターリャ修道院]]に埋葬した。
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[[1458年]]、アフォンソ5世はアルカセル・セゲールを征服した。[[1474年]]には[[アルジラ]]、[[タンジェ]]を征服した。これにより、モロッコで[[セウタ]]他4都市を掌握するアフリカ・ポルトガル帝国を形成、'''ポルトガル・アルガルヴェ、アフリカ海内海外王'''を名乗った。
 
同年、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[エンリケ4世 (カスティーリャ王)|エンリケ4世]]の死去により、エンリケの異母妹イサベル(後の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]])とエンリケの長女[[フアナ・ラ・ベルトラネーハ]]王女との間に、王位を巡って抗争が起こった。フアナは、妃に先立たれて独身だったアフォンソ5世と婚約し、その救援を求めた。43歳の叔父と14歳の姪との結婚でも、教皇の許可を取得すれば可能だった。アフォンソ5世は、この結婚でカスティーリャ・ポルトガルの両国王になれると乗り気になり、王太子[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン]]も同意したので、2万の兵を率いてカスティーリャへ侵攻した。しかしカスティーリャ人と軍の大半は、出自の明らかでないフアナよりも、[[アラゴン王国|アラゴン]]王太子妃となったイサベルを支持していたため、[[1476年]]3月のトロの戦いで敗れた。膠着状態に陥った継承戦争のさなか、アフォンソ5世はフランスに赴いて[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]の援助を求めたが失敗した。教皇庁からも結婚の許可はついに出なかった。
 
[[1477年]]7月、アルカソヴァ条約により戦争は終結した。条約の内容は次の通りであった。