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第三次英蘭戦争では、1672年3月にイングランドがオランダに[[宣戦布告]]し、つづいて[[フランス王国]]も[[4月6日]]に宣戦を布告した([[オランダ戦争]])。このため、オランダは海と陸から攻撃を受けるという国家的危機に瀕した。
 
英蘭戦争と[[海上封鎖]]で経済が疲弊し、民衆はデ・ウィット政権に不満を抱くとともに、この国家的危機を乗り切るために当時22歳のオラニエ公ウィレム3世を支持した。[[1672年]][[7月24日]]に兄のコルネリス・デ・ウィットが逮捕され、[[デン・ハーグ|ハーグ]]のヘバンゲンポールト(現ハーグ監獄博物館)に収監された。ヨハン・デ・ウィットは、拷問を受けて衰弱し追放処分を受けることとなったコルネリスの求めに応じて、ヘバンゲンポールトを訪れた。デ・ウィット兄弟がいることを知ってヘバンゲンポールトを取り囲んだ群衆は、ついにヘバンゲンポールトに乱入し、兄弟を引きずり出して虐殺した(この虐殺に対して[[スピノザ]]が激怒したことが知られる。また、[[アレクサンドル・デュマ・ペール]]の[[黒いチュリップ]]でも題材になった)。
 
== 関連項目 ==