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'''霜月騒動'''(しもつきそうどう)とは、[[鎌倉時代]]後期の[[1285年弘安]]8年([[弘安1285年]]8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]][[鎌倉]]で起こった[[鎌倉幕府]]の[[政変]]。8代[[執権]][[北条時宗]]の死後、有力[[御家人]]の[[安達泰盛]]と、[[内管領]]の[[平頼綱]]が対立し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。'''弘安合戦'''、'''安達泰盛の乱'''、'''秋田城介'''(あきたじょうのすけ)'''の乱'''ともいう。
 
== 背景 ==
安達泰盛は、[[鎌倉幕府]][[御家人]]で、[[北条氏|北条]][[得宗]]家の外戚で[[御恩奉行]]として影響力を持っていた。[[1284年]](弘安7年)に[[執権]][[北条時宗]]が死去すると、泰盛は[[弘安徳政]]と呼ばれる幕政改革に着手し、[[内管領]]の[[平頼綱]]と対立する。1285年11月、頼綱は9代執権の[[北条貞時]]に讒言(「安達が[[源氏]]に改姓し[[征夷大将軍|将軍]]になる陰謀あり」とのことだという)を用いて、貞時の命令で泰盛を討伐した。泰盛の子の[[安達盛宗]]も[[博多]]で滅ぼされ、泰盛に属した[[少弐景資]]が兄の[[少弐経資]]に岩戸合戦で滅ぼされ、[[武蔵国]]でも泰盛派の御家人が討たれ、縁者の[[北条顕時|北条(金沢)顕時]]、[[長井時秀]]が処罰されるなど、影響が及んだ。
[[安達泰盛]]は幕府創設以来の有力[[御家人]][[安達氏]]の一族で、[[北条氏]][[得宗]]家の外戚として[[執権]][[北条時宗]]を支え、[[越訴|越訴頭人]]、[[御恩奉行]]などの重職を歴任した幕政の中心人物であった。[[平頼綱]]は時宗の[[乳母]]父で北条氏[[得宗]]家の執事[[内管領]]であり、得宗権力を具現する立場にあった。幕府では[[外様]]御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していた。[[弘安]]7年([[1284年]])に両者の調停役となっていた執権時宗が死去し、14歳の嫡子[[北条貞時|貞時]]が9代執権となると、[[元寇|蒙古襲来]]以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は[[弘安徳政]]と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令を大量に発布した。[[征夷大将軍|将軍]]を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威の発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので、得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった。
 
== 経過 ==
更に、影響は[[朝廷]]にも波及して、泰盛と親交があった[[亀山上皇]]の[[院政]]停止([[持明院統]][[伏見天皇]]即位)が行われた背景の一つにこの騒動を上げる説もある。
弘安8年([[1285年]])11月4日と14日に頼綱は日光山別当[[源恵]]に依頼し、泰盛伐の祈祷を行った。合戦の状況を語る唯一の一次[[史料]]である霜月騒動覚聞書によると、11月17日の午前中、松谷の別荘に居た泰盛は、世間が騒がしくなった事に気付き、昼の12時頃塔ノ辻にある出仕用の屋形に出かけ、貞時邸に出仕したところを頼綱の手勢の襲撃を受けて殺害された。死者30名、負傷者10名に及び、これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所が延焼、午後4時頃に合戦は安達方の敗北となった。
 
[[安達時景]]は飯山に逃亡したが殺害された。泰盛の一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及して各地で泰盛派が追撃を受け、自害に及んだ。安達氏の基盤である[[上野国]]・[[武蔵国]]の御家人の被害は多く、武蔵では武藤少卿左衛門、[[遠江国]]では安達宗顕、[[常陸国]]では安達重景、[[信濃国]]では伴野彦二郎らが自害した。九州では泰盛の子[[安達盛宗]]が[[岩戸合戦]]で敗死した。これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で時間を定めて一斉に襲撃したためと見られる。
この事件以後、幕府内で[[得宗]]の家臣である[[御内人]]の代表である内管領の専権が強まり、得宗専制支配が確立した。
 
泰盛与党として罹災したのは泰盛一族の他、[[小笠原氏]]、[[足利氏]]、[[伊東氏]]、[[武藤氏]]([[少弐氏]])、その他は[[藤原相範]]、[[吉良満氏]]、殖田又太郎([[大江泰広]])、小早川三郎左衛門、三科蔵人、[[天野景村]]、[[伊賀景家]]、[[二階堂行景]]、(大井)美作三郎左衛門、綱島二郎入道、池上藤内左衛門の尉、行方少二郎、南部孫二郎(政連?)、有坂三郎、鎌田弥藤二左衛門尉、秋山人々など、幕府創設以来の有力御家人層の多くが見られる。一方頼綱方の討手として得宗被官化した御家人の[[佐々木氏]]、[[今川氏]]、[[千葉氏]]なども加わっており、同族内でも頼綱方と泰盛方に分かれるなど、幕府を大きく二分した争乱であった。泰盛と縁戚関係のあった[[金沢貞顕]]は[[下総国]]に蟄居の身となり、[[宇都宮景綱]]、[[長井宗秀]]らが失脚した。
 
== 霜月騒動後の鎌倉幕府 ==
実権を握った平頼綱は泰盛の弘安改革を否定し、幕府の人事は得宗を頂点に[[北条氏 (大仏流)|大仏流]]、[[北条氏 (名越流)|名越流]]を中心に北条一族の支配となり、足利氏ら旧来の御家人の姿は無かった。京都では泰盛と協調して弘安徳政を行っていたと見られる[[亀山上皇]]の[[院政]]停止([[持明院統]][[伏見天皇]]即位)が行われた。
 
== 将軍問題 ==
『[[保暦間記]]』によると、頼綱は泰盛の子[[安達宗景|宗景]]が[[源頼朝]]の[[落胤]]であると称して[[源氏]]に改姓し、謀反を起こして将軍になろうとしている、と貞時に讒言したという。泰盛は[[源氏]]将軍に伝えられる「[[髭切|髭切太刀]]」を京都のある霊社から探し出して[[法華堂]]の御逗子に納めていた。髭切りの太刀は霜月騒動で行方不明になったのち、12月5日に得宗被官によって探し出され、貞時によって「赤字の錦袋」([[平氏]]を称する北条氏は赤旗)に包まれて再び法華堂に奉納された。本来将軍と御家人の主従関係で成り立っていた幕府内部において、得宗が零細御家人を取り込んで被官化し、得宗と御内人の主従関係を築くようになっていた。本来将軍に仕える幕府創設以来の御家人にとって、一段身分の低い北条家被官となる事への反発は強く、それら御家人層の多くが泰盛派に加わっていた。将軍問題は得宗が幕府の頂点にありながらも、その出自の低さ故に自ら将軍になる事の出来ない北条氏が最後まで乗り越える事の出来ない壁となっていた。
 
== 参考文献 ==
*[[永井晋]] 『金沢貞顕』 〈人物叢書〉吉川弘文館、2003年。
*[[福島金治]] 『安達泰盛と鎌倉幕府 - <small>霜月騒動とその周辺</small>』 [[有隣堂|有隣新書]]、2006年。
*[[本郷和人]] 『新・中世王権論』 [[新人物往来社]]、2004年。
*[[村井章介]] 『北条時宗と蒙古襲来』 NHK出版、2000年。
 
== 関連項目 ==
*[[日本史の出来事一覧]]
*[[徳政]]
*[[外様]]
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[[Category:鎌倉時代の戦い]]
[[category:鎌倉時代の事件]]
[[zh:霜月骚动??]]