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|Mausoleum=[[アーリントン国立墓地]]
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'''ネルソン・アップルトン・マイルズ'''(英:Nelson(Nelson Appleton Miles、[[1839年]][[8月8日]]-[[1925年]][[5月15日]])は、[[南北戦争]]、[[インディアン戦争]]および[[米西戦争]]に従軍した[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]]である。
 
== 初期の経歴 ==
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== インディアン戦争 ==
[[1866年]]7月、マイルズは正規軍の大佐に指名された。[[1869年]]3月、第5アメリカ歩兵連隊の指揮官となった。[[1868年]][[6月30日]]にメアリー・ホイト・シャーマンと結婚した。メアリーはホイト・シャーマンの娘、[[ウィリアム・シャーマン]]と[[ジョン・シャーマン (政治家)|ジョン・シャーマン]]の姪であり、チャールズ・R・シャーマンの孫娘だった。
 
マイルズは[[グレートプレーンズ]]のアメリカ・[[インディアン]]種族に対する陸軍の作戦のほとんど全てで指導的役割を担った。[[1874年]]から[[1875年]]、[[カイオワ]]族、[[コマンチェ]]族およびレッド川沿いの南部[[シャイアン族]]を破る部隊の野戦指揮官だった。[[1876年]]から[[1877年]]の間では、[[ジョージ・アームストロング・カスター]]中佐が[[リトルビッグホーンの戦い]]で敗れた後は、北部平原を平定する作戦に参加し、[[ラコタ]]族やその同盟種族を[[インディアン居留地|居留地]]に押し込めた。[[1877年]]冬、[[モンタナ州]]を横切る強行軍を行い、ジョセフ酋長に率いられた[[ネズ・パース]]族の部隊を止めた。マイルズの軍歴の残り期間、ジョセフ酋長の捕獲に関する功績を[[オリバー・O・ハワード]]将軍と争うことになった。[[イエローストーン川|イェローストーン]]に居る間に、通信信号を送るための日光反射信号機実験で専門知識を広げた。これは陸軍信号司令部の[[アルバート・マイアー|アルバート・J・マイアー]]准将が支給したものだった<ref name="Coe">Coe, Lewis (1993) ''The Telegraph: A History of Morse's Invention and its Predecessors in the United States'' McFarland, Jefferson, N.C., p. 10, ISBN 0-89950-736-0</ref>。
 
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== 米西戦争とその後の人生 ==
[[ファイル:NelsonMiles.jpg|thumb|200px|アメリカ陸軍軍事史センターにあるマイルズ将軍の肖像]][[ファイル:General Nelson Miles and other soldiers on horseback Puerto Rico..JPG|thumb|right|200px|プエルトリコでのマイルズ将軍]]
[[1894年]]、マイルズはプルマン・ストライキの暴徒を鎮圧するために動員された部隊を指揮した。[[1895年]]には[[アメリカ陸軍総司令官]]に指名され、[[米西戦争]]の間その職にあった。マイルズはシボニーなど[[キューバ]]の各地で部隊を指揮した。[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]での[[スペイン]]降伏後、プエルトリコ方面作戦と今日呼ばれるものでグアニカに上陸し[[プエルトリコ]]侵入部隊を自ら率いた。マイルズは腐臭のする牛肉缶詰を野戦の部隊に配った軍補給係をひどく批判した(陸軍牛肉スキャンダル)。
 
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マイルズは南北戦争、インディアン戦争および米西戦争で指揮官として従軍した。70代後半の時に[[第一次世界大戦]]での従軍も志願したが、[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領がその年齢を理由に断った。
 
マイルズは[[1925年]][[5月15日]]、95歳で心臓発作で死んだ。[[アーリントン国立墓地]]のマイルズ廟に埋葬された。この墓地の中にある2つしかない廟の1つである。
 
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'''表彰'''
{{Cquote2quotation|敵の強力な部隊による繰り返し攻撃に対して前進陣地を指揮して耐え、重傷を負った傑出した勇敢さに。<ref name=AMOHW>
{{cite web
|publisher = American Civil War website