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水野智之『室町時代公武関係の研究』(吉川弘文館、2005年)P141-145・293
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父は[[広橋国光]]、母は[[高倉永家]]女。妻は[[津守国繁]]女。実子に[[日野資勝]]、[[日野輝子]]、養子に[[日野資栄]]がいる。養女は[[小笠原貞慶]]の妻([[小笠原秀政]]の母)。
 
[[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])、[[日野晴光]]が死去したものの後を継ぐべき子がいなかった。そのため、[[飛鳥井雅綱]]の子[[日野資堯|資堯]]を擁する[[三好長慶]]と広橋国光の子兼保を擁する[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝]]との間で争いが生じた。日野流の[[柳原資定]]・[[広橋兼秀]]の賛同を得た義輝の意見が通り、[[永禄]]2年([[1559年]])4月23日に[[正親町天皇]]の承認によって広橋兼保の日野家相続が決定され、直ちに[[侍従]]に任ぜられて義輝の一字を与えられて「日野輝資」と改名した。
[[永禄]]2年([[1559年]])、[[日野晴光]]の死去により同家を相続した。[[天正]]2年3月26日([[1574年]])、[[正親町天皇]]の勅使として、[[飛鳥井雅清]]と共に[[織田信長]]の下に訪れ、[[蘭奢待]]切り取りの勅許の旨を伝えた。天正4年年2月1日([[1576年]])、[[烏丸光宣]]・[[広橋兼勝]]らと共に[[山科言継]]・[[山科言経]]に同行し、[[村井貞勝]]を訪問した。
 
[[永禄]]2年([[1559年]])、[[日野晴光]]の死去により同家を相続した。[[天正]]2年3月26日([[1574年]])、[[正親町天皇]]の勅使として、[[飛鳥井雅清]]と共に[[織田信長]]の下に訪れ、[[蘭奢待]]切り取りの勅許の旨を伝えた。天正4年年2月1日([[1576年]])、[[烏丸光宣]]・[[広橋兼勝]]らと共に[[山科言継]]・[[山科言経]]に同行し、[[村井貞勝]]を訪問した。
 
[[慶長]]7年1月7日([[1602年]])、[[近衛家]]との論争により京都を出奔する。2ヵ月後、[[徳川家康]]の取り計らいにより京都に戻る。慶長12年([[1607年]])5月、輝子の死去をきっかけにして、出家して唯心院と号した。以後、[[江戸]]や[[駿府]]において家康・秀忠父子に仕えて、[[近江国|近江]][[蒲生郡]]内において1030石を与えられた。家康側近の僧侶としては[[金地院崇伝]]・[[南光坊天海]]に次ぐ地位にあったとされている。[[禁中並公家諸法度]]の編纂にも加わり、その正本は日野唯心によると言われている。元和9年(1623年)、秀忠の上洛に従い京都に戻り、死去した。