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'''アンドレ・ド・ラヴァル‐モンモランシー'''('''André de Laval-Montmorency''', [[1408年]] - [[1485年]])は[[百年戦争]]期に[[フランス王国|フランス]]の司令官で、を務めた軍人。モンジャン、ロエアック、レの領主。彼は[[ギー13世・ド・ラヴァル]]と[[アンヌ・ド・ラヴァル]]の息子で、兄弟に[[ギー14世・ド・ラヴァル]]がいる。母方の祖母は[[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]と結婚していたジャンヌ・ド・ラヴァル。
 
==略歴==
[[百年戦争]]中の1423年、アンドレは[[イングランド]]軍に対抗していた[[フランス]]王国]]軍を助けていたが、1428年に[[ラヴァル家]]が降伏すると、彼は初代シュルーズベリー伯[[ジョン・タルボット]]の手により捕虜となった。24000エキュの身代金を支払って解放された後、彼は兄弟の[[ギー14世ド・ラヴァル|ギー]]や[[ジャンヌ・ダルク]]と共に[[オルレアン攻囲戦]]、[[パテーの戦い]]、そして[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の戴冠式に参加した。1437年、彼はフランス王国海軍提督の称号を得て、1439年にフランス王国軍司令官になった。
 
[[ジル・ド・レ]]の娘マリー・ド・レと結婚し、レの領主権を得る。
 
アンドレは1456年の王太子[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ]]の反乱の時もシャルル7世に忠実に仕え、後にルイがルイ11世として即位した際に司令官職を解雇された。しかし[[公益同盟]]戦争の後、アンドレは司令官職を回復し、王もまた彼を許し、彼に[[パリ]]の政府の上級代理人、及び[[ピカルディ]]の知事職を与えた。後嗣無しに死亡。
 
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