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'''愛新覚羅慧生'''(あいしんかくらえいせい 昭和13年([[1938年]])[[2月26日]]-昭和32年([[1957年]])[[12月4日]])とは、[[満州国]]皇帝・[[愛新覚羅溥儀]]の実弟[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]の長女。[[天城山心中]]で散った女性として知られる。
 
※以の記述は、脚注を除き、[愛新覚羅浩1992年]・[舩木1989年]による。
 
== 経歴 ==
昭和13年([[1938年]])、溥傑と[[嵯峨浩]](日本の[[華族侯爵]]出身)夫婦の第一子として、満州国の首都[[新京]]で生まれる。
翌年、父が満州国駐日大使館に勤務となり、[[東京]]に行く。その次の年の昭和15年([[1940年]])に妹の[[福永嫮生|嫮生]](こせい)が生まれた後、新京に戻る。新京にいる間は皇帝である伯父の溥儀に大変可愛がられた。
 
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== 趣味 ==
*音楽に関心があり、[[ピアノ]]や[[ヴァイオリン]]を習っていた。4歳(数え年)になる頃、皇帝からピアノを買い与えられたが、[[李香蘭]]と同じ先生に教わっており、彼女と一緒に演奏したこともあった<ref>渡辺1996年、75頁</ref>。少ししてからヴァイオリンも習うようになり、満州では皇帝のピアノ伴奏に合わせて弾いていた。学習院入学後は当時[[世田谷区|世田谷]]に住んでおられた[[鈴木鎮一]]先生に教わっていたが、同じ仲間に[[豊田耕児]]がいた。昭和17年([[1942年]])、満州国建国10周年に[[高松宮]]が来満された時は、その記念として慧生が「高松宮殿下奉迎歌」を[[日本語]]と中国語の2カ国語で歌い、レコードをつくった。
*上記の「慧生と中国」でも触れたが、読書家である。母の浩は、慧生の読書癖は父親似であると推察している。
 
※以上の記述は、脚注を除き、[愛新覚羅浩1992年]・[舩木1989年]による。
 
== 評価 ==
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*愛新覚羅浩1992年『[[流転の王妃|流転の王妃の昭和史]]』新潮文庫ISBN 4101263116(初出1984年)
*愛新覚羅溥傑1995年『溥傑自伝―「満州国」皇弟を生きて 』([[丸山昇]]=監訳・金若静=訳)河出書房新社ISBN 4309222684
*[[舩木繁]]1989年『皇弟溥傑の昭和史』新潮社ISBN 4103723017
*穂積五一・木下明子編1961年『われ御身を愛す 愛新覚羅慧生・大久保武道遺簡集』鏡浦書房
*[[渡辺みどり]]1996年『愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人―』文春文庫ISBN 4167171031 (初出1992年)
 
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[[Category:自殺した人物]]
[[Category:在日中国人の人物]]
[[Category:日系中国人]]
 
[[en:Huisheng]]