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===歴史===
====観阿弥・世阿弥====
流祖[[観阿弥]]清次([[1333年]]~[[1384年]])は山田[[猿楽]]の美濃大夫に養子入りした何某の三男で<ref>『申楽談義』</ref>、結崎座の大夫(「棟梁の仕手」)となった。それまで[[式三番]]など神事猿楽を中心としていた結崎座を猿楽中心の座へと改め、中年以降は次第に猿楽の名手として[[大和国|大和]]以外でもその芸が認められるようになった。特に[[1374年]]ごろに行われた洛中今熊野の勧進能において[[足利義満]]に認められ<ref>『申楽談義』</ref>、以後貴顕の庇護のもと[[近畿]]を中心に流勢をのばした。
 
二世[[世阿弥]]元清([[1363年]]?~[[1443年]])はその美貌によって幼時より足利義満・[[二条良基]]・[[佐々木道誉]]らの庇護を受け、[[和歌]]・[[連歌]]をはじめとする上流の教養を身につけて成長した。父観阿弥の没後は、観世座の新大夫として近江[[申楽]]の[[犬王]]らと人気を争い、それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれて所謂歌舞能を完成させた。[[足利義持]]の代となると、義持の後援した田楽の名手[[増阿弥]]と人気を争う一方で、『[[高砂 (能)|高砂]]』『[[忠度]]』『[[清経]]』『[[西行桜]]』『[[井筒 (能)|井筒]]』『[[江口 (能)|江口]]』『[[桜川 (能)|桜川]]』『[[蘆刈]]』『[[融]]』『[[砧 (能)|砧]]』『[[恋重荷]]』などの能を新作し、『[[風姿花伝]]』『[[至花道]]』『[[花鏡]]』といった能楽論を執筆して、実演・実作・理論の諸方面で能楽の大成につとめた。