「九二式戦闘機」の版間の差分

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フォークト技師は[[土井武夫]]技師を補佐として[[1929年]](昭和4年)6月から設計開始し、[[1930年]](昭和5年)7月に試作1号機が完成した。完成した機体は、[[ジュラルミン]]製の主翼桁の採用や全金属製[[モノコック|モノコック構造]]の胴体など、それまでの機体になかった新機軸が盛り込まれていた。そして、試作1号機はテスト飛行時に高度10000m到達や最大速度320 km/hの日本記録を樹立するなどの優秀な性能を示した。
 
その後、試作3号機まで生産され審査が続けられたものの、墜落事故の発生や機体の強度不安の問題の発覚、優れた性能の[[九一式戦闘機]]の生産、配備開始等の事情から、本機の実用化は困難という意見が陸軍内で出るようになった。しかし[[1931年]](昭和6年)の[[満州事変]]勃発にともない、戦闘機を短期間に大量に配備する必要が出てきたため、陸軍では本機の第2次審査を急ぎエンジンの信頼性の向上や機体各部の強化等の改良を行った後、[[1932年]](昭和7年)10月には九二式戦闘機として制式採用された。これには[[液冷エンジン|液冷]]・[[水冷エンジン|水冷]][[ピストンエンジン|エンジン]]メーカーとしての川崎の育成を図るという目的もあった。エンジンは[[ドイツ]]の[[BMW]]が開発した[[BMW VI]](BMW-6)を川崎で[[ライセンス生産]]した。BMW-6は陸軍でのみ使われ、「[[ベ式ハ9 (エンジン)|ベ式五〇〇馬力発動機]]」という制式名称でも呼ばれた。
 
量産は既に同年の1月から開始されており、制式採用後本格的な量産体制にはいった。このため、部隊配備が始まった頃には戦闘が終了しており、実際に戦場には出ることはなかった。