「社会ファシズム論」の版間の差分

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社会ファシズム論とは、社会民主主義とファシズムを双子として同一視する見解である。こうした見解が生じた背景としては、[[ドイツ革命]]直後の[[ドイツ社会民主党]]と[[ドイツ共産党]]の路線対立や、[[ネップ]](新経済政策)後に左傾する[[ソビエト連邦|ソ連]]内部において、路線対立が先鋭化していたことなどが挙げられる。この種の考え方は1920年代前半よりあったが、[[コミンテルン]]全体の方針とされていくのは1920年代末のことであり、1929年の第十回コミンテルン執行委員会総会は、社会ファシズム論を明示した。
 
この路線に従ってドイツ共産党はドイツ社会民主党を敵視し、そのために議会では反社会民主党的な行動を繰り返した。ドイツ共産党の[[警備隊|武装組織]]「[[赤色戦線戦士同盟|Rot Front-赤色戦線]]」が社会民主党党員を襲撃したり、「ワイマール政府反対」を掲げナチスの労働者組織と共闘してストライキを行ったりした。このことは、同じく反社会民主党の姿勢を打ち出す[[ナチス]]を結果的に利することになった。[[世界恐慌]]下でこうした左派政党内の対立がみられたことは、[[大衆]]の彼らへの失望とナチスへの期待を助長させた。また、ナチス政権成立の直前までドイツ共産党とドイツ社会民主党の合計議席数はナチスを上回っており、両政党が連携していればもっとファシズムに対抗する効果的な方策を打ち出すことも可能であった。ドイツ共産党の指導者[[エルンスト・テールマン]]は「ナチスに政権を取らせよ。ナチスには政権担当能力などなく、そうすれば明日には共産党が政権を取るだろう」と語っていた。しかし、結果的には1933年にヒトラー政権が成立し、「ヨーロッパ最強」と言われたドイツ共産党は弾圧によって暴力的に急速に解体されることになる。ナチス・ドイツの政府は、[[1935年]]3月には再軍備を宣言した。こうした中で、1935年のコミンテルン第7回大会では[[人民戦線]]戦術が採択され、反ファシズムのために諸勢力が結集する方針が示された。これにより社会ファシズム論は否定されることになった。
 
[[スターリン主義]]に反対していた革命家、[[レフ・トロツキー|レオン・トロツキー]]は社会ファシズム論を批判し、ドイツ共産党と社会民主党は連帯してナチスに立ち向かうべきだと主張したが、ドイツ共産党からは聞き入れられなかった。