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'''斎藤 元宏'''(さいとう もとひろ、[[1887年]][[10月10日]] - [[1916年]][[5月25日]])は日本の[[大日本帝国陸軍|陸]][[軍人]]。最終階級は陸軍[[中尉]]。
 
==生涯==
[[山形県]][[飽海郡]][[南平田村]](現[[酒田市]])に生まれ、英次郎(後に元宏と改名)といった。鶴岡の荘内中学校(現[[山形県立鶴岡南高等学校|鶴岡南高等学校]])を中途退学して[[陸軍幼年学校]]へ進み、明治42年に[[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]]を卒業(第21期生、[[石原莞爾]]と同期)。
 
卒業後旭川[[歩兵連隊|歩兵第26連隊]]に配属され、[[朝鮮]]虎島守備隊に派遣されるが、連隊の推挙により[[陸軍大学校]]へ進学。在学中[[青柳勝敏]](大尉)等との交友関係から、中国大陸における[[袁世凱]]打倒の第二革命運動に関心を持ち、[[粛親王善耆]]([[清]]朝[[ホンタイジ|太宗]]の長子[[ホーゲ|豪格]]に始まる世襲親王家の第10世)が[[川島浪速]]等と図って結成した[[宗社党]]運動に共鳴。袁世凱打倒に共感する蒙古軍閥[[パブチャブ]](巴布扎布)の招聘を受けて、学友[[星野麟]]と共に[[満州]]を経て、[[内モンゴル自治区|内蒙古]][[ハラハ]](哈拉哈)河畔の軍本陣へ入る。
 
参謀長として民族開放の名の下にまさに義挙の大事に進発しようとする矢先に、自ら敵情視察のため[[興安嶺]]索倫方面に出撃したまま、消息を絶つ。遺体はついに発見されなかったが、弾痕血痕を残した衣類や帽子などの遺品が発見されるに及んで、内蒙古[[トシイェト]](図什業図)にて戦死したことが確認された。享年29。
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* 1902年(明治35) - 広島陸軍地方幼年学校へ入学。
* 1907年(明治40) - 陸軍士官学校へ入学(第21期生)。
* 1909年(明治42) - 士官学校を卒業し[[歩兵]][[少尉]]。旭川歩兵26連隊に配属。
* 1912年(明治45) - 朝鮮永興湾要塞虎島守備隊に配属。
* 1913年(大正2) - 同守備隊長。英次郎から元宏へ改名。連隊からの推挙により、陸軍大学を受験し、これを突破。
* 1915年(大正4) - [[陸軍大学校]]入校(第30期)。大礼記念章を授与される。在学中蒙古へ赴き、蒙古軍司令官パブチャブ(巴布札布)将軍と会見。
* 1916年(大正5) - 蒙古軍へ参加。[[陸軍省]]より[[歩兵第52連隊]]付歩兵[[中尉]]を停職令を受ける(陸軍大学中退)。パブチャブ軍総参謀長として作戦中、内蒙古興安嶺索倫方面にて死亡。
* 1917年(大正14) - 東京本郷麟祥院で烈士追悼会。川島浪速、石原莞爾、[[大川周明]]、[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]、[[小磯國昭]]、[[川島芳子]]等出席。
* 1934年(昭和9) - 粛親王の筆になる追悼碑が酒田日和山公園内に建立。石原莞爾、星野麟らが参列。
* 1977年(昭和52) - 1945年(昭和20年)米軍進駐に際し土中に埋伏された碑を、有志がこれを掘り起し、日和山の招魂祭殿(通称招魂社)境内に復元再建。
 
[[Category{{DEFAULTSORT:日本の陸軍軍人|さいとう もとひろ]]}}
[[Category:山形県出身日本陸軍軍物|さいとうもとひろ]]
[[Category:1887年生|さいとうもとひろ山形県出身の人物]]
[[Category:19161887没|さいとうもとひろ]]
[[Category:1916年没]]