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== 経歴 ==
長井利隆の推挙で当時、油商人であった松波庄五郎([[斎藤道三]]の父)を長弘は家来に取り立て、断絶していた家臣筋の[[西村氏]]の名跡を相続させ、西村勘九郎(正利)と名乗らせた。後に長井姓を贈り、勘九郎は長井新左衛門尉(豊後守)と名を変えたという
 
[[永正]]14年([[1517年]])、美濃守護[[土岐政房]]の跡目を巡り、[[土岐氏]]の家督争いが起きると、政房の次男[[土岐頼芸|頼芸]]を擁立して、嫡男[[土岐頼武|頼武]]を擁立した美濃[[守護代]]・[[斎藤利良]]と戦い敗れるが、翌年には巻き返して勝利を治め、頼武の勢力を越前へ追放した。永正15年([[1519年]])、朝倉氏の援助を得た頼武方の美濃侵攻により、頼芸方は圧倒されて頼武が守護に就いた。しかし、長弘は政権奪取を画策し、[[大永]]5年([[1525年]])、家臣の新左衛門尉とともに再び挙兵し、頼武、新守護代となった[[斎藤利茂]]らと戦い、主家の[[斎藤氏]]の居城・[[稲葉山城]]を攻め取り、同年6月には美濃守護所の福光館も占拠し、頼芸を守護とすることに成功する。そして長弘は頼芸を奉じて[[斎藤氏]]の実権を握り、小守護代として勢力を拡大した。享禄元年([[1528年]])、関城(安桜山城)を築き、居城として絶頂期を迎えた。その後も頼武方との対立は続いたが、[[享禄]]3年([[1530年]])、頼武を再び越前へ追放し、頼武の勢力を一掃した。しかし、天文2年(1533年)、上意討ちの名目(不行跡の罪とも)で新左衛門尉(またはその子長井規秀)に殺されたという(急死したとも)。その後、家督は子の景弘が継いだとされるが、新左衛門尉の子規秀(後の斎藤道三)に殺された(もしくは死去した)ため、規秀が遺跡を相続した。