「エンゲルベルト・ドルフース」の版間の差分

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== オーストロ・ファシズム ==
首相就任後のドルフースは[[世界恐慌]]によって引き起こされた問題に取り組むこととなった。しかしながら議会に於いて彼は多数派とはなり得なかった。デフレの政策は支持されず、議会に於いてキリスト教社会党と対峙する2大政党の一つ[[オーストリア社会民主党]]との対立は深まった。ドルフースは[[1933年]]3月に議会を停止し法令によって管理した。彼には更にオーストリアで民主主義を保留する別の理由があった - [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]である。[[アドルフ・ヒトラー]]が今や[[ドイツの首相]]となり、将来のオーストリアの選挙でオーストリア・ナチスが議会の多数を占め、オーストリアが国家として存続できなくなる恐れがあった。この頃[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]はナチス及びヒトラーに対して好意を抱いておらず、同じ[[カトリック教会|カトリック]]の[[保守的]]価値観を持つ盟友としてドルフスを強く支持した。ドルフースは6月にナチスの活動を禁止し、翌年2月には社会民主党の活動を禁止した。これに反発する社会民主党は武装蜂起を試みたが、直ちに鎮圧された(「1934年の内乱」又は「2月事件」、「2月内乱」という)。
 
[[1934年]][[4月30日]]、ドルフースは新憲法を公布する。「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が議会に代わって組織され、それは政府に対する補助機関と位置づけられた。これによって政府は事実上立法・行政の2権を掌握して、イタリア[[ファシズム]]を参考にしつつも、カトリックと中世ドイツ的な伝統に支えられた新しい国家体制を打ち立てた。国名も'''オーストリア連邦国'''と改称された。