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'''趙盾'''(ちょうとん 生没年不詳)は[[中国]][[春秋時代]]の[[晋 (春秋)|晋]]の[[政治家]]。[[姓]]は'''贏'''、[[氏]]は'''趙'''、[[諱]]は'''盾'''、[[謚]]は'''宣'''。[[趙衰]]の長男。[[趙 (戦国)|趙]]氏の祖。晋に於いて長きに渡って政権を執り、趙氏の存在を一躍高くした。'''趙宣子'''、'''趙宣孟'''などとも呼ばれる(孟は長子をあらわす)。
 
 
==趙盾の登場==
==生涯==
===趙盾の登場===
趙衰は[[驪姫|驪姫の乱]]の後に[[文公 (晋)|重耳]]に従って諸国を放浪していた。亡命先の[[狄]]に於いて趙衰は狄の族長の娘である叔隗を娶り、趙盾を儲けた。その後、重耳は晋へ帰還して文公となり、趙衰は文公に付き従ったことにより高位に上った。更に文公の娘である趙姫(姫は「ひめ」では無く、晋室の[[姓]]。趙氏に嫁いだので趙姫と言う)を娶り、新たに趙同、趙括、趙嬰斉の三人の子を儲けた。
 
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注釈:晋の軍制では中軍・上軍・下軍の三軍があり、それぞれの将と佐(副将)には[[卿]](大臣クラスの貴族)が就く。中軍が最も上であり、中軍の将になることは正卿([[宰相]])になることと同じである。
 
===霊公の擁立===
同年、襄公が没する。太子の夷皋がまだ幼かったので群臣は襄公の弟を晋公に立てるべきだと話し合った。趙盾の意見により、[[秦]]に仕えていた公子雍を呼び戻して晋公とすることになった。所が狐射姑は[[陳 (春秋)|陳]]にいた公子楽を呼び寄せて晋公にしようとしていたので趙盾はこれに刺客を放って公子楽を殺し、狐射姑は亡命した。しかしこのことで反対派の動向を恐れるようになった趙盾は考えを変えて夷皋を晋公に立てることにし、秦軍の護衛を受けてやってきた公子雍を軍を出して追い払った。この時に公子雍を迎えにいっていた先蔑と[[士会]]は秦へ亡命した。秦は当然晋に対して不快感を持ち、攻撃してきたがこれは撃退した。しかし趙盾は士会が秦にいることを憂えて策を使ってこれを呼び戻した。
 
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趙盾は董狐に「自分が弑したわけではない」と抗議したが、董狐は「あなたは霊公が殺された後、国境を出ずに帰ってきた。すなわちその時点であなたはまだ晋の正卿であるのだから反逆者である趙穿を誅する義務があった。それをしなかったのだから自らが弑したのと同じだ。」と答えた。この後は趙盾はこの事に関して一切反論しなかった。
 
===引退===
その後、趙盾は成公に対して異母弟の趙括を公族にしてもらうように願い、受け入れられた。趙姫の恩を忘れなかったのである。
 
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*[[安西篤子]]「趙氏春秋」『洛陽の姉妹』所収,[[講談社]],1999年
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== 関連項目 ==
*[[趙 (戦国)]]
 
 
{{先代次代|[[晋 (春秋)|晋]]の[[趙 (戦国)|趙]]氏当主|2代目|[[趙衰]]|[[趙朔]]}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ちようとん}}