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しかし[[925年]]に王審知が死んだ後は内紛が続く。まず翌年に王審知の長男の[[王延翰]]が位に就くが、弟の[[王延鈞]]に殺され、そのまま王延鈞が位に就く。閩は後梁を倒した[[後唐]]に対して引き続いて称臣していたが、後唐の明宗・[[李嗣源]]が病に倒れ、後唐が混乱しているのに乗じて、[[933年]]に独立して[[皇帝]]を名乗った。
王延鈞は[[935年]]に長男の[[王継鵬]](王昶)によって殺され、王継鵬(王昶)が帝位に就く。[[937年]]、王継鵬(王昶)は後唐を倒した[[後晋]]に再び称臣して閩王に戻った。
翌年に王延羲は配下により殺され、王延政が閩王の地位を継いだが、この混乱を見た一族の[[王継勲]]と[[王継成]]がそれぞれ自立し、国内は分裂状態となった。この状況を見た[[南唐]]の[[李ケイ|李璟]]により攻め滅ぼされて、王延政ら王族は南唐の首都[[建康 (都城)|金陵]]へと連れ去られ、その地で天寿を全うした。
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