「テレグノシス」の版間の差分

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[[新馬戦]]では[[藤田伸二]]が手綱を取るが11着と敗退。折り返しの新馬戦で初勝利。12月の暮れの500万下特別の[[さざんかステークス|さざんか賞]]は[[ローマンエンパイア]]の2着となる。
=== 2002年 ===
若竹賞は2着、うぐいす賞で2勝目を挙げた。重賞初挑戦となった[[スプリングステークス]]では[[タニノギムレット]]との差のない2着となり、実力が大きく評価された。本来なら皐月賞へ出走する権利があるが、得意の東京コースを選ぶと共に間隔を空けて[[NHKマイルカップ]]に出走。4番人気で初GI制覇を成し遂げた。鞍上の[[勝浦正樹]]と調教師の杉浦も初GI制覇となった。同レースでは2回斜行し、進路妨害による[[降着制度|降着]]かと思われたが、15分の審議の結果降着処分にはならなかった。被害を受けた[[タニノギムレット]]の鞍上[[武豊]]はこの事に激怒したという。だが、タニノギムレットは直線取り残された形で最後方という極端な位置取りであり、お互い馬群を抜け出すのを相当苦労したなかでの出来事であった。次走の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]では11着に敗退する。秋シーズンはマイル路線に集中して古馬と対戦するが、全く実績を残せなかった。
 
=== 2003年 ===
年明けに入ってもいい実績を残せなかったが、[[安田記念]]の前哨戦[[京王杯スプリングカップ]]で久々の勝利を挙げるが、本番の安田記念では主戦の勝浦が騎乗停止処分となったため、[[ミルコ・デムーロ]]が手綱を取るが7着と敗退。内側有利の前の馬が残る馬場であり、大外から後方一気で追い込むテレグノシスとっては不利な条件であった。その後夏場は[[フランス]]へと遠征し、同馬主で同一路線を歩む[[ローエングリン]]と共に海外GI戦に挑戦。[[ジャック・ル・マロワ賞]]が2着、[[ムーランドロンシャン賞]]は12着。帰国後の[[マイルチャンピオンシップ]]は14着、[[香港マイル]]は7着であった。