「アルガーノン・キングスコート」の版間の差分

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参考文献の原書名
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キングスコートの家族は、父親のハワード・キングスコート([[1845年]] - [[1917年]])はイギリス軍の大佐であり、母親のアデライン・ジョージナ・イザベラ・ウルフ([[1860年]] - [[1908年]])は有名な著述家であった。[[1888年]][[12月3日]]、アルガーノンがこの両親の間の第3子として生まれた頃、両親は仕事の関係で[[インド]]の[[バンガロール]]に住んでいた。母親はこのインド在住期間の経験をもとに、2冊の著書を世に送り出した。
 
キングスコートの[[第一次世界大戦|第1次世界大戦]]前のテニス成績では、記録が残っているものは[[1914年]]の[[1914年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]2回戦だけである。[[1914年]]に始まった世界大戦で、彼は[[イギリス陸軍]]の高級将校を務め、戦争の英雄となった。戦争は[[1918年]]11月に終結し、[[1919年]]から[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム大会]]や[[デビスカップ]]など、テニス競技大会の開催が再開された。終戦後に再開された最初のイベントは、[[1919年ウィンブルドン選手権]]である。キングスコートは「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)決勝まで勝ち進んだが、[[ジェラルド・パターソン]]([[オーストラリア]])に 2-6, 1-6, 3-6 で敗れ、前回大会(世界大戦前の[[1914年ウィンブルドン選手権|1914年]])優勝者[[ノーマン・ブルックス]]への挑戦権を逃した。(注:当時のウィンブルドン選手権では、大会前年度優勝者を除く選手たちによる「チャレンジ・ラウンド」の後、それを制した選手が前年度優勝者と決勝を戦う「オールカマーズ・ファイナル」方式を採用していた。)ウィンブルドン選手権終了後、彼は[[デビスカップ]]にも[[イギリス]]代表選手として初参加し、イギリスは決勝で[[フランス]]を破って優勝した。
 
キングスコートが優勝した[[1919年全豪テニス選手権|1919年全豪選手権]]は、実際の開催年月は[[1920年]]1月後半になる。彼が[[オーストラリア]]への遠征を決めた理由は、開戦直後に行われた[[1914年]]デビスカップ決勝(1914年8月6日-8日にかけて、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]にある「ロングウッド・クリケット・クラブ」で実施)で「イギリスがオーストラリアに負けたから」だったという。[http://www.daviscup.com/ties/tie.asp?tie=10000597] (彼自身は、その時の代表選手ではなかった。)ところが、彼は大会初日に腕の捻挫を起こし、1回戦の試合出場を断念すると宣言した。これに対して、大会主催者が彼のために治療日を設け、試合日程を1日後にずらしたという。それで気力を回復した彼は、[[ニューサウスウェールズ州]]大学チャンピオンとの1回戦を順調に乗り切り、続く準々決勝で[[アルフレッド・ビーミッシュ]]と顔を合わせたが、同国選手のビーミッシュが不戦敗を宣言する。準決勝で[[ジェームズ・アンダーソン]]を下した彼は、決勝でエリック・ポックリーを 6-4, 6-0, 6-3 のストレートで圧倒し、初優勝を果たした。彼の全豪選手権出場は、この1度だけである。(以上の記述は、下記参考文献のうちブルース・マシューズ著の『ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史』9ページを参照した。)
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全豪選手権優勝から半年後、キングスコートは[[1920年]]の[[1920年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]男子ダブルスで準優勝した。パートナーは同じイギリスの[[ジェームズ・セシル・パーク|ジェームズ・パーク]]と組んだが、決勝で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ペアの[[リチャード・ノリス・ウィリアムズ|リチャード・ウィリアムズ]]&[[チャールズ・ガーランド]]組に 6-4, 4-6, 5-7, 2-6 で敗れ、準優勝に終わった。この大会のシングルスでは、4回戦で[[ビル・チルデン]]に敗退している。(チルデンは自著『ローンテニスの芸術』の第13章で、キングスコートのプレーに関する詳細な説明を残した。)その後は[[1921年ウィンブルドン選手権|1921年]]・[[1924年ウィンブルドン選手権|1924年]]のベスト8が最高成績であった。キングスコートの活動期間中に、ウィンブルドン選手権ではトーナメントのシステムが変更され、[[1921年ウィンブルドン選手権|1921年]]を最後に「チャレンジ・ラウンド」と「オールカマーズ・ファイナル」が廃止された。[[1922年ウィンブルドン選手権|1922年]]から、すべての選手が1回戦からトーナメントに出場する方式になり、現在に至っている。
 
[[1924年]]、キングスコートは[[パリオリンピック (1924年) におけるテニス競技|パリ五輪]]で[[オリンピック]]に出場したが、シングルス4回戦で[[ジャン・ボロトラ]]([[フランス]])に 1-6, 3-6, 1-6 で完敗した。彼はこの年までデビスカップのイギリス代表選手を務め、[[1927年]]の[[1927年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]2回戦敗退を最後に競技テニスから引退した。彼はイギリス陸軍の職業軍人として、[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]にも従事した。全豪選手権優勝とウィンブルドン選手権での活躍から40年ほど後、アルガーノン・キングスコートは[[1964年]][[12月21日]]に[[イングランド]]・[[サリー (イングランド)|サリー州]]ウォーキングにて76年の生涯を終えた。
== 外部リンク ==
* [http://www.itftennis.com/mens/players/player.asp?player=10003784 ITFプロフィール]
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* 両親のプロフィール:[http://www.thepeerage.com/p20159.htm#i201581 父親]・[http://www.headington.org.uk/history/famous_people/kingscote.htm 母親]
== 参考文献 ==
* ブルース・マシューズ著『Bruce Matthews, “''Game, Set and Glory: A History of the Australian Tennis Championships''” (ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史』(英語、) The Five Mile Press, Victoria, Australia (1985年刊、) ISBN 0867880783、ファイブ・マイル・プレス)0-86788-078-3 本記事の骨格は、本書の9ページを参照した。
* “''Our Open - 100 years of Australia's Grand Slam''” (我らのオープン-オーストラリア・グランドスラムの100年史』(英語、) News Custom Publishing, Victoria, Australia (2004年刊、) ISBN 1876176601、全豪オープン公式出版物)1-876176-60-1 本書からは、大会抽選表を参照した。
* [[バド・コリンズ|Bud Collins]], “''Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia''” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3
* バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス)
 
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