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'''中山 照守'''(なかやま てるもり、[[元亀]]元年([[1570年]]
父家範とともに[[北条氏照]]の家臣となり、[[天正]]18年([[1590年]])[[八王子城]]の戦いで侍大将であった父は討ち死にした([[小田原の役]])ため、照守は[[武蔵国|武蔵]]加治に潜伏していたが、同年8月、父の最期に感銘した[[徳川家康]]に弟・[[中山信吉|信吉]]とともに召抱えられ、300石を与えられて[[徳川秀忠]]の使番となる。[[慶長]]5年([[1600年]])、秀忠の軍に従い、[[上田合戦]]にて上田七本槍に数えられる働きをするが、軍律違反であり叱責を受け、[[真田信之]]お預けとなって[[上野国|上野]][[吾妻郡]]に閑居するが、翌年に許され本領を安堵される。馬術の名手として、秀忠に馬術を教授し、のちに3代将軍[[徳川家光]]にも手ほどきしている。慶長14年([[1614年]])、[[大坂の役]]では子の直定とともに参戦し、得意の馬術で戦功を挙げて500石を加増された。後に1000石加増され、[[目付]]となって[[寛永]]3年4月に[[肥後国]]熊本に巡察として赴く。[[寛永]]9年([[1632年]])に鑓奉行となり、最終的に3500石の[[旗本寄合席|大身旗本]]となる。[[寛永]]11年([[1634年]])に死去。享年65。家督は、嫡男の直定が継ぐ。墓所は、[[菩提寺]]の[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]。法名は、無相院殿可山宗印大居士。
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