「徳大寺公純」の版間の差分

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[[1858年]]、[[日米修好通商条約|通商条約勅許問題]]が起こると、条約勅許に反対したため、[[井伊直弼]]による[[安政の大獄]]で「悪謀企策の者」として逮捕され、謹慎50日間を命じられた。しかし1ヶ月間で罪を許されている。
 
その後は[[公武合体]]運動を推進して[[二条斉敬]]らと共に活躍したが、[[和宮親子内親王|和宮]]の[[徳川家茂]][[降嫁]]に関しては反対の立場を取ったため、幕府から圧力を受けて失脚している。その後、復帰して[[執政]]となった。こうした政治的変動の中で公純も命を狙われており、[[1863年]]には家臣・滋賀右馬允が公武合体に反対する[[浪士]]達に殺害されている。
 
明治以後も[[攘夷論|攘夷派]][[公家]]としての矜持を保ち、[[京都]]に留まった。たとえ身内の者であっても洋装の客に対しては決して会おうとはしなかった。ただし、それはあくまでも自分自身の信念の問題であると考えていたらしく、息子・西園寺公望の[[フランス]][[留学]]実現に陰で奔走したのは公純であったと言われている。