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{{otheruses|[[イングランド]]の牧師|過去に[[ジュリアナ東京]]、[[ヴェルファーレ]]などで活動したディスコ[[ディスクジョッキー|DJ]]|ジョン・ロビンソン (DJ)}}
'''ジョン・ロビンソン'''(John Robinson、[[1575年]] - [[1625年]])は、[[イングランド]]の牧師。初期における[[分離派]]の中心人物として挙げられる。[[オランダ]]で「[[巡礼始祖]](ピルグリム)」の出発を準備した。
==生涯==
[[1592年]]より[[ケンブリッジ大学]]のコルプス・クリスティ・カレッジで学び、その後は同カレッジで教壇に立った。12年間の学生・教員生活を経て、ノリッチで牧師となるが、国教会の方針に従わなかったため解職された。その後もイングランドにとどまって分離派の教義を広めようとしたが、ジェームズ1世の治世における宗教的抑圧に耐えかねて、オランダへの移住を計画した。[[1607年]]の脱出計画は失敗に終わり投獄されたが、翌[[1608年]]に再び脱出を試みて、信徒とともにオランダの[[アムステルダム]]に渡った。しかし、華美な国際都市アムステルダムは、教団にとって望ましくないと考え、[[ライデン]]にその拠点を移した。その後、教団の行き詰まりを感じたロビンソンは、[[バージニア会社|ヴァージニア・カンパニー]]の支援をとりつけて、[[アメリカ大陸]]への移民へと着手した。当時の船体では全員の信徒を一度でアメリカへ運ぶことができなかったため、段階的に渡航することになり、高齢であったことや残った信徒をまとめるため、ロビンソンはライデンにとどまった。[[1620年]]、まず先発隊がスピードウェル号にのって、イングランド経由でアメリカ大陸へと目指した。その途中で船が故障したため、イングランドから合流したもう一隻の船であった[[メイフラワー号]]に乗り換えることになった。(このように、メイフラワー号の乗船員のうち約半数はオランダからの乗船員であった。また、イングランドから乗り込んだ人々は、必ずしも宗教的情熱を持った人と限らなかった
==参考文献==
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