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'''北条 義宗'''(ほうじょう よしむね、[[建長]]5年([[1253年]]) - [[建治]]3年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]([[1277年]][[9月16日]]))は、[[鎌倉時代]]中期の[[武将]]。[[鎌倉幕府]][[御家人]]。[[本姓]]は[[平氏]]。[[家系]]は[[桓武平氏]]の流れを汲み[[鎮守府将軍]][[平貞盛]]の四世 [[平直方]]を祖とする[[坂東八平氏]]のひとつ[[北条氏]]の[[一門]] [[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流北条氏]]の別れで[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流北条氏]]二代当主。[[鎌倉幕府]][[評定衆]]。'''赤橋義宗'''とも称される。[[鎌倉幕府]]第6代[[執権]][[北条長時]]の[[嫡男]]。母は[[北条時盛]]の娘。[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流北条氏]]二代当主。子に[[北条久時]]ほか。孫に最後の執権[[北条守時]]、[[足利尊氏]]正室の[[赤橋登子]]ほか。正式な名乗り平義宗(孫にあいらのよしむね)
 
== 略歴==
叔父・[[北条時茂]]の没後、その後任として[[六波羅探題]]北方となった。着任早々の文永9年([[1272年]]8代[[執権]]・[[北条時宗]]の命により時宗の異母兄・[[北条時輔]]追討を命じられ、[[二月騒動]]で討ち取る。[[1276年建治]]2年([[建治1276年]]2年)に鎌倉に下向、翌年[[評定衆]]に任ぜられるがまもなく没した。享年25。
 
== 官職位階履歴 ==
※日付=旧暦
*1268年([[文永]]5)12月16日、従五位下に叙し、左近衛将監に任官。
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== 関連項目 ==
*[[北条氏]]
*[[北条氏 (赤橋流)]]