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[[fileファイル:Maria Luisa Fernanda de Borbon.jpg|right|thumb|200px|ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボーン、[[フランツ・ヴィンターハルター]]画]]
'''ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボーン''' ('''Luisa Fernanda de Borbón''', [[1832年]][[1月30日]] - [[1897年]][[2月2日]])は、モンパンシエ公[[アントワーヌ・ドルレアン (モンパンシエ公)|アントワーヌ]]の妻。
 
[[スペイン]]王[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]と王妃[[マリア・クリスティナ・デ・ボルボーン]]の次女として[[マドリード]]で生まれた。同母姉[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]が幼くして即位したことから、イサベル2世王女[[イサベル・フランシスカ・デ・ボルボーン|イサベル]]が誕生する1851年まで、長きにわたって王位継承順位第1位の立場にあった。
 
姉イサベル2世はいとこ従兄の[[フランシスコ・デ・アシース・デ・ボルボーン|フランシスコ]]王子と婚約していたが、王子が同性愛者であるとする噂が広まっていた。これを耳にしたフランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]は、イサベル2世に子供がない場合ルイサ・フェルナンダ王女に王位が継承されるとし、自らの末子であるモンパンシエ公アントワーヌとの婚約を成立させた。
 
1846年10月10日、イサベル2世とフランシスコ王子、ルイサ・フェルナンダとモンパンシエ公の結婚式が同時に執り行われた。アントワーヌは結婚によってスペイン王子(Infante de España)資格身分を得た。彼がスペイン王位継承を企んだために、ルイサ・フェルナンダとイサベル2世の仲は緊張することとなった。モンパンシエ公夫妻はマドリードを離れざるをえなくなり、[[セビーリャ]]で暮らした。
 
イサベル2世の退位と亡命で、ルイサ・フェルナンダ一家も国外へ亡命した。晩年、未亡人となったルイサ・フェルナンダはセビーリャへ戻り、そこで没した。遺体は[[エル・エスコリアル]]へ埋葬された。
 
==子女==
*[[マリー=イザベル・ドルレアン|マリア・イサベル]](1848年 - 1919年) - [[フィリップ (パリ伯)|パリ伯フィリップ]]の妻
*マリア・アマリア(1851年 - 1870年)
*マリア・クリスティナ(1852年 - 1879年) - 妹マリア・デ・ラス・メルセデスの死後、アルフォンソ12世と婚約するが、挙式前に[[肺結核]]で死去
*マリア・デ・ラ・レグラ(1856年 - 1861年)
*フェルナンド(1959年 - 1873年)
*[[マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス|マリア・デ・ラス・メルセデス]](1860年 - 1878年) - [[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]妃となるが急逝
*フェリペ(1862年 - 1864年)
*アントニオ(1866年 - 1930年) - ガリエラ公。スペイン王女[[エウラリア・デ・ボルボーン|エウラリア]]と結婚
*ルイス・マリア(1867年 - 1874年)
 
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