「木曽谷」の版間の差分
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はじめ[[美濃国]][[恵那郡]]に属していたが、[[信濃国]]と所属がしばしば争われた。[[9世紀]]後半の[[貞観 (日本)|貞観]]年間には勅命による検分が行われ、県坂上岑([[鳥居峠]])を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように、「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。
古代末期から中世初期にかけて、大吉祖荘([[宗像大社|宗像少輔領]]
15世紀末には、新たに木曾荘が登場する。木曾荘は16世紀前半まで美濃国として史料に現れるが、16世紀半ば頃に当地を支配下に入れた[[武田信玄]]は木曾谷を信濃と認識した。「木曾谷は信濃」の認識が定着したのは、おそらく信玄以後のことだろうと考えられている。
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