「ルイージ・ダッラピッコラ」の版間の差分

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[[フェルッチョ・ブゾーニ]]の[[新古典主義音楽]]作品の影響はダッラピッコラの後の作品に顕著に現れているが、彼が受けた最大の影響は1930年代に出会った[[新ウィーン楽派]]、とりわけ[[アルバン・ベルク]]と[[アントン・ヴェーベルン]]であろう。ダッラピッコラの1920年代の作品は、演奏してはならないという指示があったために回収されているが、現在でも研究のために入手することが可能である。
 
ダッラピッコラの作品には、彼の規範によって生み出され、採用された[[十二音技法]]が広く用いられている。彼は実際、その技法を用いて作曲をした最初のイタリア人であり、イタリアで最初の支持者であり、より叙情的・調的なスタイルを可能とする[[セリー音楽]]の技法を発展させた人物である。1930年代を通してダッラピッコラのスタイルは、突発的な半音階を含む全音階スタイルから、意識的なセリー音楽の様相へと発展した。彼は十二音列を主旋律の要素として用いることから始め、やがては自分の作品を完全にセリー音楽として構築するようになった。セリー音楽を用いることで彼は、多くの新ウィーン楽派批判者が近代の十二音音楽に欠落していると言ったメロディーラインを失うことがなかった。彼のムッソリーニ支配に対する幻滅が、彼の音楽性を変化させた。第二次エチオピア戦争の後、彼は自分の作品がもはやかつてのように軽快で楽しい作品ではあり得ないと述べている。その後にも『ミュリエル・クーヴルーのためのピッコロ協奏曲 ''Piccolo concerto per Muriel Couvreux per pianoforte e orchestra''』などの例外はあるものの、このことは大部分において事実であった。
 
器楽伴奏付きの単声作品『ギリシャ抒情詩 ''Liriche Greche''』(1942 - 45年)が、ダッラピッコラ最初の完全に十二音技法で作られた作品であろう。これと同時期に、彼の最後の純粋な全音階作品であるバレエ『マルシア ''Marsia''』(1943年)も作曲されている。その後の10年間で、彼の技術の洗練と、ヴェーベルン作品の影響の増加が見て取れる。その後[[1950年代]]から、若い頃の露骨で情熱的なスタイルとは対照的な、彼が作りだした優雅で観照的なスタイルが彼の作品の特徴となった。彼の作品の大部分は、単声と器楽伴奏のための声楽曲である。彼の楽器法に対する特徴は、その[[印象派#音楽|印象主義]]的な官能性と柔らかな基調であり、[[木管楽器]]や[[弦楽器]]の通奏音(特に[[クラリネット]]や[[ヴィオラ]]など中音域の楽器)に重点が置かれている。