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立井信三郎と別れキャメロンハウスに身を寄せたことを明記。戦後の活動として幡ヶ谷女子学園についても触れる。
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== 略歴 ==
神奈川県[[三浦郡]][[久里浜村]](現在の[[横須賀市]])の貧農、浅葉弥平治とミヱの4女として生まれる。18歳の時に上京先の横浜で[[女衒]]にかどわかされ、[[1897年]](明治30年)渡米、[[シアトル]]の娼館に売られ「アラビアお八重」の名で過ごす。[[1900年]](明治33年)に新聞記者・立井信三郎に助けられ、サンフランシスコに脱出。娼婦救済施設キャメロンハウスに身を寄せ、[[キリスト教]]に入信し通訳として働く。[[1903年]](明治36年)に、[[サンフランシスコ]]で社会学者[[山田嘉吉]]の英語塾へ入り翌年結婚。[[1906年]](明治39年)に帰国する、東京四谷区に居住
 
嘉吉の下で[[スウェーデン]]の社会思想家[[エレン・ケイ]](1849-1926)の[[母性主義]]の思想にふれ、以後、妊娠・出産・育児にあたる母親を国家により保護する、すなわち国による母性の保護を思想信条とした。嘉吉の外国語塾の塾生、[[大杉栄]]を通じて知った、[[平塚らいてう]]の『[[青鞜]]』誌上にエレン・ケイ、[[オリーブ・シュライナー]]などの翻訳や、小説、随筆いくつか寄稿、[[新婦人協会]]の設立時には評議員の一人として参加。また[[1934年]](昭和9年)5月、母性保護法制定促進婦人連盟(翌年4月、[[母性保護連盟]]と改称)が結成されると初代委員長に就任。運動の成果は、[[1937年]](昭和12年)3月に「[[母子保護法]]」の成立として結実する。
 
なお、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じ「女子の徹底した独立」を唱える[[与謝野晶子]]、社会主義者の[[山川菊栄]]らの批判に対し、平塚らいてうと共に激しく反駁、[[母性保護論争]]と呼ばれる論戦を展開した。
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*[[1931年]](昭和6年)5月から[[東京朝日新聞]]家庭面の女性相談欄を担当。評論活動を開始。[[1932年]](昭和7年)[[3月30日]]付紙面に掲載された「家に押し入ってきた強盗によって妊娠させられてしまった女性」からの相談に対して、「子供を生んで育てるように」と回答し、大きな反響を呼び起こした。
*[[主婦の友社]]社長[[石川武美]]の要請を受け、同社顧問となる。1937年(昭和12年)に遣米婦人使節として渡[[アメリカ合衆国|米]]。[[1941年]](昭和16年)3月には親善使節としてドイツ及びイタリアを訪問した。
*[[1947年]](昭和22年)売春婦の更正施設として[[幡ヶ谷女子学園]]を設立した。
 
== 参考文献 ==