「大庭景義」の版間の差分

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{{武士/官位|出羽権守、懐島権守}}
{{武士/氏族|[[桓武平氏]]、[[鎌倉氏]]、[[大庭氏]]}}
{{武士/父母|父:[[大庭景宗]]([[鎌倉景忠|景忠]])}}
{{武士/兄弟|'''大庭景義'''、[[豊田景俊]]、[[大庭景親]]<br />、[[俣野景久]]<br />[[波多野義常]]室}}
{{武士/子|'''[[大庭景兼|景兼]]'''}}
{{武士/終了}}
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'''大庭 景義'''(おおば かげよし)は[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]初期の[[武将]]。'''景能'''とも表記。[[桓武平氏]]支流、[[鎌倉景政]]の曾孫(『[[尊卑分脈]]』)。
 
[[平氏|平姓]][[大庭氏]][[大庭鎌倉景経]]の孫で[[鎌倉景忠|大庭景忠]]の長子(『[[尊卑分脈]]』)。あるいは[[鎌倉景宗|大庭景宗]]の長男(『[[系図纂要]]』『[[桓武平氏諸流系図 (三浦和田文書)|桓武平氏諸流系図]]』等)とするなど諸説ある。[[相模国]][[大庭御厨]]([[神奈川県]][[藤沢市]])の中の[[懐島郷]](現・[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]])を本拠とし、「'''[[懐島氏|懐島太郎]]'''」を名乗りとした。妹婿に[[松田義常]]。
 
若くして[[源義朝]]に忠誠を誓う。[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]においては義朝に従軍して出陣、敵方の[[源為朝]]の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。
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出家の詳細については『[[吾妻鏡]]』などにわずかに記述があるだけで、今日でも謎が多いが、それによれば
[[建久]]4年([[1193年]])の[[8 (旧暦)|8月]]、大庭景義は同じ相模の有力武士の[[岡崎義実]]とともに、老齢を理由に
出家したことになっている。
しかしわずか2年後に景義は「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま3年を過ごして参りました」と書面を奉じ、許されたとある。
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== 参考文献 ==
* [[石井進]]『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』([[平凡社ライブラリー]][[2002年]]) ISBN 4-582-76449-5
*『[[吾妻鏡]]』
 
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{{DEFAULTSORT:おおはかけよし}}
[[Category:鎌倉大庭氏|かけよし]]
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:鎌倉時代の武士]]