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== 来歴・人物 ==
神戸の海運業者の父親と、京都の[[芸妓]]の母親との間に妾腹の子として[[京都市]]に生まれる。[[神戸市]]出生との説もあり、成人するまで母親に一度も会うことなく育った。[[立命館大学]]専門部商科卒業後、[[日活]]京都撮影所に[[助監督 (映画)|助監督]]として入社。戦局の悪化にともなって召集され[[満州]]へ配属される。戦後三年余り[[シベリア]]で抑留生活を送り、そこでの過酷な経験や人間観察が、自身の屈折した生い立ちと相まって後の作風を形作ることとなった。復員後は[[大映]]に籍を置き、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[松田定次]]、[[衣笠貞之助]]らに師事した。監督デビュー作は『丹下左膳・こけ猿の壺』(1954年)。[[田中徳三]]、[[池広一夫]]と共に「大映三羽烏」と称され、全盛時の[[大映京都撮影所]]を支える主力監督として[[プログラムピクチャー]]を撮り続ける。また国産初の70ミリ映画『釈迦』の監督も務めた。大映[[倒産]]後は[[映像京都]]の立ち上げに参加してテレビシリーズを手がける傍ら、勝プロ=大映京都撮影所(配給は東宝)で数本の劇場用作品を完成させる。初の他社撮影所(松竹大船)での劇場映画『狼よ落日を斬れ』を完成させた直後の1975年、[[肝癌|肝臓ガン]]のため死去。享年54という若さであった。
 
「座頭市」シリーズや、「剣」三部作、「眠狂四郎」シリーズなどの作品により、時代劇の巨匠監督の地位を得た。また、[[若山富三郎]]を主役に据えた映画版『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼]]』における鮮烈な[[殺陣]]シーンなどは、[[クエンティン・タランティーノ]]や[[サム・ライミ]]にも大きな影響を与えたとされる。