「翼賛議員同盟」の版間の差分

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== 概説 ==
 
[[1940年]]の[[大政翼賛会]]の結成によって既成の[[政党]]は全て解党され、[[12月20日]]には翼賛会の下に衆議院統一会派である衆議院倶楽部(435名)が結成されたが、一部[[右翼]]からの「大政翼賛会[[違憲]]論」に押されて、翌1941年に[[近衛文麿]][[内閣総理大臣|首相]]が大政翼賛会を[[政事結社]]ではなく[[公事結社]]であるとして、一切の政治活動を禁じたられたために衆議院倶楽部は解散を余儀なくされ、全ての[[衆議院議員]]が[[無所属議員]]となってしまったために、[[衆議院]]は大混乱に陥った。
 
一方、近衛側近の前[[司法大臣]][[風見章]]は元[[鉄道大臣]][[前田米蔵]]と図って、[[貴族院議員]]である近衛首相を長とする[[貴族院_(日本)|貴族院]]・衆議院合同の会派結成を模索する。ところが、長年政党を嫌悪してきた貴族院の[[華族]]議員がこれに反発したために失敗に終わった。このため、前田は自主的な形で院内会派を結成することとして、1941年9月2日に衆議院議員326名で翼賛議員同盟を結成し、前田米蔵・[[永井柳太郎]]・[[大麻唯男]]ら7名を総務に選出した。だが、この動きに反対する[[鳩山一郎]]・[[芦田均]]・[[片山哲]]・[[尾崎行雄]]・[[大野伴睦]]・[[林譲治 (政治家)|林譲治]]・[[星島二郎]]らは[[同交会]]、[[西尾末広]]・[[松本治一郎]]・[[水谷長三郎]]・[[牧野良三]]・[[河野一郎]]・[[深沢豊太郎]]・[[江藤源九郎]]らは[[興亜議員同盟]]を結成してこれに対抗した。
 
1942年の[[第21回衆議院議員総選挙]]においては、[[翼賛政治体制協議会]]の中核となって機能したが、選挙後に[[東條英機]]首相の意向を受けて、[[5月20日]]に解散して他の院内団体を強制的に統合した[[翼賛政治会]]を結成した。